お節介と親切の違いとは?『自由論』から個人の自由を考えてみる

ミル
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親切にしてあげたつもりなのに、相手からは、お節介だと思われてしまった経験は、誰にでもあります。

お節介と親切は、一体何が違うのでしょうか?

この記事では、ジョン・スチュアート・ミルが書いた『自由論』を紹介しながら、お節介について考えてみます。

強制してはいけない

ミルが『自由論』で強調していることは、相手に、自分の生き方を強制してはいけないという点です。

「こうした方がその人のためになる」と思ったとしても、強制してはいけません。

他人に何かを強制したら、それは、お節介になってしまうのです。

「そうした方が本人のためになる」

「本人をもっと幸福にする」

こんな理由で、他人に何かを強制してはいけません。

もし、「本人にとって良いことだから」という理由で、自分の意見を押し付けているのであれば、それは相手の自由を侵害しています。

なぜなら、人は自分で選ぶ自由があるからです。

そのやり方で幸せになるかどうかは、その人が決めます。

Aさんにとっては、そうするのが賢明で正しいことでも、Bさんにとっては、違うかもしれません。

人によって、どんな生き方が幸福かは、それぞれ違うのです。

その人が、どうやったら幸せになれるかは、本人が1番分かっています。

良かれと思ってたとしても、他人が嫌がることは、してはいけないのです。

世の中には「されて嬉しいことを他人にもしてあげよう」と教育された人もいるかもしれません。

しかし、それは嘘です。

なぜなら、「何をされたら嬉しいか」は、人によるからです。

監視されたくない

お節介な人は、他人を「監視」することが好きです。

「あなたのためを思って」と言いながら、実際にしていることは、「監視と批判」なのです。

そのような人たちは、監視をして「暇つぶし」をしたいのです。

しかし、これは、相手を不快にさせています。

誰だって、監視されたら嫌なのです。

アニメの世界では、「人は支え合って生きている」と言われているかもしれません。

しかし、現実世界では、「人は自立している」のです。

なので、「先回りして、察してあげよう」とされると、迷惑なのです。

大人なら、困ってる時に、適切に他人を頼れるので、放っておいて大丈夫です。

もし「あなたのためを思って」と言いながら、何かを強制したら、この行動は、その人を不快にします。

誰かが「あなたのために」と行動するより、本人に任せた方が、その人は幸せになります。

他人が本人を幸せにしてあげることなんて、ほとんどできないのです。

周りの人が、その人に価値観を押し付けることは、その人が人生で失敗することより、深刻な状況になります。

その人が失敗したら、たしかに、ちょっと悲しいかもしれません。

しかし、誰かに人生を支配されたら、その人は、ものすごく不幸になるのです。

人は、自分のやりたいようにやらせてもらえない時に、不幸になります。

お節介は、行き過ぎると相手を不幸にするのです。

倫理観は人それぞれ

「あなたのために」と声を上げる人は、哲学者になったつもりでいます。

そして、「誰もが、私の望む通りに行動すべきだ」と言って、自分の倫理観を他人に押し付けます。

哲学者になったつもりになってる人は、他人の行動に口出しをしたがります。

彼らは、自分の望むとおりに誰もが行動すべきだ、という感情を持っているのです。

本人は“いいこと”をして気持ちよくなっています。

しかし、自分にとって嬉しいことが、他人にとっても嬉しいとは、限らないのです。

例えば、Aさんにとっては、お喋りが楽しいことだとしても

Bさんにとっては、嫌なことかもしれません。

ならば、自分の価値観だけで、判断してはいけません。

他人の人生のことは、本人に任せればいいのです。

反論

反論として、世の中には、「他人に無関心でいるなんてヒドイ」と考えている人もいるかもしれません。

しかし、ミルは、「無関心でいることは、良いことだ」と考えています。

なぜなら、あれこれアドバイスをしてくる人は有害だけど、他人に無関心な人は無害だからです。

 

干渉しないことも、優しさです。

理解しようとしてあげる姿勢すら、相手にとっては煩わしいのです。

自分には理解ができない生き方をしてる人がいたとしても、ほっておきましょう。

もし、「ほっておけない」というならば、それは、相手の自由を侵害しているということなのです。

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