個人の自由とは、他人に危害を加えない範囲で、やりたいことをやることである、とミルは言います。
とはいえ、実際問題、社会で生きていくためには、嫌われない努力も必要である、という考え方もあると思います。
では、なぜミルは、嫌われてでも自由に生きるべきだと考えたのでしょうか?
見ていきます。
自由がない社会
自由がない社会で生きる人は、沈黙させることのできない強い意志を誤魔化しながらの人生を送ると、ミルは言います。
誰でも、自分の意見だけを貫く人はいないし、世間の意見だけを聞く人もいません。
自分の本音と、世間の意見を折り合わせようと、工夫をして、生きているのです。
しかし、あまりに自由がない社会では、自分の本音が犠牲になるだけです。
自由の大切さ
世間の意見を聞くしかない人生を送るべきではない、とミルは主張します。
大切なのは、自由であることです。
どんな結論を出したとしても、自分の知性に従って生きるべきなのです。
なぜなら、自分の本音に耳を傾けないと、他人から言われたことをやるだけの機械のような人になってしまうからです。
しかし、自由がない世界では、自分の本音に耳を傾ける人が、周りから叩かれてしまいます。
自由がない社会で生きる人は、「変だ」「異端だ」と言われることへの恐怖を感じながら生活します。
世間から叩かれる恐怖で、精神の発展が締め付けられ、理性がおじてづいてしまうのです。
常識について討論するべきではないという暗黙の了解があると、高い精神活動は、育ちません。
情熱が燃え上がるような重大な問題をめぐる討論があるから、国民の知性が根底から掻き立てられるのです。
二つの原理
ミルは、『自由論』の中で、二つの原理を紹介しています。
第一の原理は、周りの人のソントクに関わらない行動に関しては、それをするかどうかは本人の自由ということです。
その行為をする人に対して、周りの人がコントロールをしてはいけません。
例えば、Aさんが、Bさんのファッションを見て、「不快だ」と思っても、そのファッションを止める権利はAさんにはありません。
どうしてもAさんにとって不快なら、Aさんにできることは、Bさんを避けることだけです。
誰かの行動に対して嫌悪や非難を表明するために使用してもいいことは、「避けること」です。
避けることが唯一の正当な手段です。
第二の原理は、誰かの行動が社会へ危害を加える場合だけは、個人の行動を干渉していいというものです。
干渉というのは、止めたり、アドバイスをしたりすることです。
周りの迷惑になる時だけ、その人の行動を邪魔していいということです。
とはいえ、なんでもかんで「周りに迷惑になるからやめて」と指示していいわけではありません。
例えば、自分が仕事を得たせいで、代わりに誰かがクビになることがあるかもしれません。
しかし、だからといって「仕事をしたら周りに迷惑だ」と言うのは間違っています。
競争社会の中では、自分が幸せになることで他人が不幸になるというのは、よくある話です。
誰かが仕事を得ることで、周りの人がソンすることがあるのかもしれません。
しかし、真面目に生きていても、どうしても周りに迷惑をかけざるを得ない状況もあります。
人は、そんな葛藤を抱えて生きています。
人気の職業では、成功する人がいれば、失敗する人がいます。
同じ目標を目指してる人が2人いて、片方しか勝てない場合、負けた人は、今までの人生の努力が無駄になるのです。
「勝った人は負けた人のおかげで幸せになってる」とと考えることもできます。
しかし、競争して、それぞれが自分の目標を追求することは、人々全般の利益にとってメリットがあるのです。
最後に
議論しても分かり合えない人と、無理やり関わる必要はないとミルは言います。
誰かに嫌われても、世間に批判されたとしても、自分の出した結論に従って生きるべきなのです。
なぜなら、そうした方が、高い精神活動が育つからです。