子どもが自己主張できるようになるにはどうすれば良い?『自由論』から考える

JSミル

自己主張が大切な理由

自己主張が大切な理由は、自己主張をすることで、個性を磨くことができるからです。

人には、個性があります。

他の人とは違う才能を持っているのです。

その才能は「自分は何が好きなのだろう」と自問していくなかで、発見することができます。

自己主張をするからこそ、才能を見つけることができるのです。

たとえ、生まれ持った才能があったとしても、自分の本音に耳を傾けないと、それを開花させることができません。

どんな結論を出すにせよ、自分の出した判断に従って生きていくのが、才能を開花させる秘訣なのです。

自己主張ができない理由

しかし、自由がない世界では、自分の本音に耳を傾ける人が、周りから叩かれてしまいます。

そのため人々は、「変だ」「異端だ」と言われることへの恐怖で、精神が締め付けられるのです。

精神の発展が締め付けられ、理性がおじけづいてしまうため、自分が、どんな人でありたいのか、自由に表現できなくなるのです。

また、自己主張ができる人は、周りから叩かれやすいです。

こうした人は、沈黙させることのできない強い意志があっても、誤魔化すしかありません。

叩かれないようにするには、自分の意志を抑え込むしかないのです。

人々は、自分の信念と、社会の常識を、折り合わせようと工夫して生きています。

しかし、異端な人が叩かれる社会では、常識を優先するしかないのです。

こうして、国民全員は、似たような思想を持つようになり、精神が束縛されます。

その結果、独創性は排除され、国が停滞してしまうのです。

ヨーロッパが発展した理由

『自由論』を書いたジョン・スチュアート・ミルは、200年前のイギリスの哲学者です。

ミルは、アジアは、経済が停滞したけど、ヨーロッパはまだ停滞せずにいられていると話しています。

ヨーロッパが発展できたのは、多様性があったからだと、ミルは主張します。

ヨーロッパが発展できたのは、ヨーロッパにもともと優れたものがあったからではありません。

性格や教養に多様性があったからです。

それぞれの生き方が、価値あるものを生んでいたのです。

ヨーロッパにも、常識を押し付けようとする人も、確かにいました。

しかし、常識という束縛に対抗して、個性が自己主張する事で、ヨーロッパは発展していったのです。

学校は、人を同一化させてしまう

教育の拡大も、人を同一化を促進していると、ミルは言います。

同一化とは、個性を無くすということです。

学校に通うと、人は個性を削られてしまいます。

なぜなら、子どもたちを、教室という同じ環境下に置いて、みんなが同じ教科書を見て学ぶからです。

学校に行くと、周りに合わせることが求められます。

しかし、それぞれの人に個性があることは、良いことなのだということを、みんなが理解しておくべきなのです。

いつの時代も、価値観が違う人々は、互いの生き方を許し合えませんでした。

他人にも、自分と同じ道を歩むように強制することが素晴らしいことだと信じる人すらいました。

このように、全ての人々を画一化するという理想に向けて進むと、アジアのように発展が止まってしまうとミルは言います。

常識は害である

常識を守るように強制する人がいると、人々は、個性の出し方が分からなくなってしまいます。

常識外れの人がバッシングされる社会は、人々の精神を縛るのです。

人間は、多様性をしばらく見慣れないままでいると、個性の出し方が分からなくなってしまいます。

そして、子どもたちは、常識になってる言葉を黙って従うだけになってしまいます。

自分自身の経験で検証したりすることもなくなるので、活力が失われます。

もし、全ての教えを、鵜呑みにして信じるように強制されることで、精神を硬くしてしまうのです。

道徳は害である

「自分を愛するように隣人を愛せ」と道徳は言います。

とはいえ、こういった格言は、人々がけっしてしようとは思わないことを要求しているわけです。

「右頬を叩かれたら左頬を差し出せ」という言葉を、実際に、現実世界で実行する人はいません。

これらの教えは、人々の力になっていないのです。

ただ、格言は、「他人に道徳を強制する時」に使うなら、便利なのです。

道徳的な格言は、誰かを論破する時には使えます。

しかし、格言が役に立つのは、論敵に投げつける時くらいです。

「格言を全て実行するのは無理だ」と大人はみんな気づいています。

しかし、それを声に出してはいけないのです。

なぜなら、格言に疑問を持つだけで嫌われるからです。

疑問を持つだけで嫌われるので、みんな「格言を大切にしてるフリ」をしているのです。

このような道徳が強制された社会は、格言を、ひたすらオーム返しをするだけです。

大人たちは「格言を現実世界で実行しない方がいい」と気づきながらも、子どもたちに、鵜呑みにするように強制します。

大人たちの中で、既に「これには疑問を持ってはいけない」という領域が存在していて、子どもは、それを察するのです。

道徳を促進させれば、させるほど、子どもは自分の意見を言ってはいけないと、察するようになります。

既に、答えが出ているものを受け入れるしかないのだと、理解するのです。

博愛主義者たちは、道徳によって国民の思想や行為を支配しようとします。

国民全員を、お互いに似たものにします。

博愛主義者たちが、熱心に努力するほど、国内から自由がなくなっていきます。

道徳は、人々の心を掴んではいないだけでなく、害なのです。

なぜなら、道徳のせいで、人々の自由が制限されてしまっているからです。

自己主張できるようになるために

言論の自由のためには、何が必要でしょうか?

それは、自分の信念を他人に押し付けないことだとミルは言います。

どんなに素晴らしい信念であっても、それを他人の自由を制限するために使ってはいけないの

です。

格言をそのものは、素晴らしいものかもしれません。

しかし、その「格言」で、他人の自由を制限しているのであれば、それは素晴らしいことではありません。

道徳に黙って従うだけなら、その道徳に中身がありません。

人に活力が生まれるのは、自分で選び取り、別の主張からその主張に乗り換えた時です。

人は自分で選び取りたいのです。

その人が、どんな結論を出すにせよ、本人が自分で選び取っていることが大切なのです。

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