私自身もマレーシア生まれですが、私の周りには、帰国子女の友達がたくさんいます。
そして、帰国子女たちは、日本人とは少し変わった価値観を持っています。
10人以上の帰国子女たちの恋愛相談を受けてきた中で、彼女たちの特徴に傾向があることに気付いたので、ここにまとめます。
これを読んだら、彼女たちと致命的な摩擦を生まないために、最低限押さえておかなきゃいけないポイントが分かります。
変わっていると言われたくない
帰国子女の人たちは、日本人が「常識」と感じているものから、はみ出ている事があります。
常識に対して、盲目的にならずに、それぞれ自分の生き方を持っているのです。
彼女たちは、広い世界を知っているため、狭いコミュニティ(学校や職場など)に入った時に「思考停止して、そのコミュニティのルールに従う」というのが難しい時もあります。
例えば、日本では「女性は座る時に足を閉じなさい」とよく言われると思います。でも、アメリカでは、「女性は座るときに足を組みなさい」と言われるのです。
国が違うだけで、どう振舞えばいいのかの社会規範が変わります。
帰国子女は、広い世界を知っているからこそ、「なぜ日本ではこうなのか」をいちいち疑問に感じてしまうのです。
そのため、彼女たちは「常識だから」という理由で社会規範に従うのではなく、自分の頭で考えて、必要だと感じたら、そのルールに従うという自立した思考を持っています。
しかし、そんな彼女たちでも、「変わっている」と言われる事に対してはネガティブに捉えます。
「変わっている」と言われると、仲間外れにされたように感じる人が多いです。
特に、子どもの頃に学校などで人種差別を受けた経験がある人は、仲間外れにされることに関してとても敏感です。
彼女たちは、他人の真似をする必要はないと分かっているため、自分の生き方を貫きますが、それでも、仲間外れにされることは悲しいと感じます。
「変わってるね」と声をかけてしまうと、相手を否定しているように伝わってしまうかもしれません。
よく学校で、「変わっているね」という言葉をかけてくる人がいると思うのですが、多分その人は、その人自身の中に「これが普通」という概念が存在していて、そこから乖離している人を「普通じゃない」と定義づけているのだと思います。
このように、他人を「普通な人」と「普通じゃない人」にカテゴライズしている人はマイノリティーを傷つけてると思います。
たしかに、普通じゃない人をイジりたくなる感覚も、理解はできます。
テレビだと「変わり者をイジる」という種類のお笑いがあるので、「変わり者はイジっていい」と誤解されているのだと思います。
そのイジリが、意地悪でやってるのではなく「仲良しになりたいから」しているというのは、わかります。
しかし、私は、変わり者であるという理由で、イジられると悲しくなります。
なぜなら、イジられ役は、見下されやすいからです。
でも、イジられないように、「みんなにとっての普通」を演じるのも、しんどくなります。
私は、「“お笑い”としての会話だ」と割り切っている時は、イジリに対応しますが、「イジられてる人を見下してもいいと考えてる人」とは、できるだけ距離を置いて接しています。
イジリもコミュニケーションのひとつなので、イジリを撲滅するべきだとは思ってませんが、イジる人とは、表面的にしか仲良くできないなぁと思います。
だから、イジってくる人と友達になったとしても、恋愛対象として見るのは少し難しいです。
逆に言うと、相手と自分の違いに注目してこない人は、好印象です。
好きな映画の話とか、行きたいお店の話とか「普通の話題」で盛り上がれる関係は、すごく印象がいいと思います。
日本語が下手なのは「かわいい」ことじゃない
日本人の中には、日本語を間違えることを笑う人がいます。
私も、日本に来たばかりの頃は、カタコトを笑われて、残念でした。
面白い話をしている時なら、みんなに笑われるのが嬉しいと感じる事もあったのですが、毎回、揚げ足を取られてしまったので、しんどくなってしまいました。
みんなに「面白いことをしてくれるだろう」と期待されると、みんなを楽しませたいという気持ちが湧いてきて、ついつい頑張ってしまうのですが、家に帰ってから、疲れがドッと出てくるのです。
日本語が下手だと、赤ちゃんみたいで、愛おしくなってしまう気持ちは、理解できます。
日本では、「ドジっ子は面白い」とか「日本語を間違える人は面白い」とか、何かができない人を笑って可愛がってあげる優しさがある気がします。
ただ、その感覚が理解できない人もいます。
例えば、アメリカで私が英語を間違えたら、ただの恥ずかしい人です。
アメリカでは、英語ができない人を「赤ちゃんみたいで可愛い」とは感じてもらえないようです。
愛しい感覚が通じない場合もあるので、日本語がカタコトでも、笑わない方がいい関係を築けるかもしれません。
いくらカタコトが可愛くて褒めても、本人がそう思っていなければ、あなたの思いは相手に届きません。
そもそも、人が言葉を話す時に大事なのは、言葉そのものではなく、「伝えようとしている内容」です。
言葉は、気持ちを伝える手段にすぎません。
喩えて言うと、言葉は段ボールで、気持ちは段ボールの中のリンゴです。大事なのは、その段ボールの中のリンゴです。
どんなに段ボールがボロボロでも、リンゴが相手に届けばいいのです。
段ボールではなくて、リンゴに注目してください。
丁寧に相手の言葉を汲み取ろうとしていれば、その誠実さは相手に伝わります。
たしかに、私が日本語を間違った時に、思わず笑ってしまう人もいます。
でも、「おもわず笑ってしまった」レベルで面白いなら、それは笑ってもらえると、私も嬉しいです。
しかし、常に日本語の粗探しをされてると、喋るのが怖くなってしまいます。
「思わず笑ってしまう」時の笑いと「揚げ足を取ろうとしてる」時の笑いの違いは、伝わると思います。
とはいえ、人によって「お笑い」を優先するのか、「プライド」を優先するのかは、個人差があると思うので、相手を見ながら対応していただけると嬉しいです。
生まれ持ったものは褒められたくない
日本人にとっては、高い鼻や、長いまつ毛、小さい顔などを持ったハーフ(ダブル)顔が、美しく感じるかもしれません。
しかし、外見を褒められることを嫌う帰国子女は多いです。
なぜなら、生まれ持ったものを褒められても嬉しくないからです。
「あなた」と「私」は、別の生き物であり、比べること自体が間違っているのです。
人は、みんなそれぞれ違った美しさを持っているので、他人の美しさに嫉妬したって、何も未来は良くならないです。
そんなことをするくらいなら、自分の美しさを磨くことに時間を使う方がいいはずです。
なので、褒められても嬉しくないのです。
生まれ持ったものを褒められても、本当にどうリアクションを取ればいいのか難しいのです。
それに、その人の特徴は、その人にとってはコンプレックスかもしれません。それを生まれ持ってしまったせいで、その人が過去に苦しい思いをしている可能性もあります。
例えば、日本とガーナのハーフ(ダブル)の友達が、「ブラックビューティーだ」という褒め言葉に怒っていたことがありました。
彼女は、ルックスが原因で幼少期にいじめられており、そのしんどさをバネにして、彼女の美しさを磨いていました。彼女の美しさは、時間とお金をかけて、磨かれたものです。
そうして築き上げてきた美しさを「海外の血筋が入ってるから綺麗。羨ましい」というニュアンスで言われてしまうと、悲しいんだそうです。
生い立ちを褒めると、「努力してないくせに」と伝わる場合があるようです。言葉って難しいですね。
そのため、帰国子女を褒めるなら、こう言う方がいいと思います。
「○○さんの美しさは、生い立ちのおかげだけではなくて、努力の結果ですね」
こんな感じの言葉がいいと思います。
生い立ちは、変えられないものですが、努力は、変えられるものです。
変えられないものに注目するよりも、変えられるものに注目する方が、気分の良い会話ができると思います。
ハーフ(ダブル)顔の人は、よく人に外見を褒められます。大人なので、言い返さずに愛想笑いでやり過ごす人が多いですが、
「あなたは、あなたの美しさを磨けばいいんじゃないの?」
という言葉を、飲みこんでる人も多いようです。
人はみんな、独自の美しさを持っています。美しい人とは、その独自の美しさを、見つける努力をした人なのです。
また、帰国子女で、英語ができる人もいます。
しかし、「英語できるの?さすが帰国子女!」と言わない方がいいようです。
なぜなら、帰国子女だからと言って、マルチリンガルになれるわけではないからです。
苦労しないで英語と日本語を両方、習得する人はいません。
いろんな言語が話せる人は、人生のどこかで苦労(努力)しています。
そのため、「言語力を身につけてるのは、努力したからなんだね」という言い方の方が、「あ、分かってくれてる」という印象を与えると思います。
帰国子女は、生い立ちに注目されることに慣れているので、努力に注目してもらえると、新鮮だと思います。
日本の男性は強引すぎ?控えめすぎ?
最後に、おまけの話です。
帰国子女の女性に話を聞いていると、日本の男性は「強引すぎ」と言っている人や、「控えめすぎ」と言っている人がいます。
恋愛においての距離の詰め方については、個人差が強いので、一概に「この国の人には、こうすれば成功する」とは、言えません。
しかし、この温度感は一歩間違えると致命傷になります。
そのため、彼女の意見も聞きつつ、彼女の出身国の恋愛映画を見て、そこの恋愛の仕方を真似することから始めるのが良いと思います。
応援しています