「これが常識だから」という理由で、慣習に従うように強制してくる人は、心理的にストレスになります。
さらに、常識に縛られる人が増えすぎると、その国は進歩しなくなるとJSミルは考えました。
この記事では、ジョン・スチュアート・ミルが『自由論』で述べた内容について、見ていきます。
常識とは「その人の好み」である
みんな公平な気持ちで、判断してると思いこんでいます。
でも、その人の倫理観は、その人の好みにすぎないと、ミルは言います。
もし、自分の判断基準をしっかり言語化できないのであれば、それは「なんとなく」これが正しそうに見えると、思い込んでるだけなのです。
多数派が正しいとは限らない
また、理由が示されたとしても、他の人の同様の好みに訴えるだけのものだとしたら、1人の好みを大勢の人々の好みに変えただけにすぎないのだそうです。
ところが、人は「自分が多数派である」という理由だけで、自分が正しい人間であると勘違いしてしまう傾向があります。
常識を重視する理由
しかし、結局のところ、何を賞賛するかは「自分の願望」なのです。
または、偏見や迷信ということもあると、ミルは言います。
さらに言うと、自分自身の欲望や恐れや、自己利益のためであるのだそうです。
習慣はふつう、なぜそうなっているのかという理由を示す必要があるものだと考えられてはいません。
それだけに、人々がたがいに課している行為のルールに関して、疑念を持たせないという点で、習慣の効果はいっそう徹底しています。
さらに、哲学者を自任したがっている人々の一部の考え方がそれを助長していると、ミルは言います。
本人は、哲学者になったつもりになってるかもしれません。
しかし、その人を動かしているのは、「自分の望むとおりに誰もが行動すべきだ」という感情なのです。
自由を尊重するべき
他人を妨げているわけではない場合は、本人の好きにさせれば良いと、ミルは言います。
自分の人生に関することであれば、本人の自由にさせればいいはずです。
本人に関わることなら、本人の好みで判断して良いのです。
なぜなら、意見は自由であるべきだからです。
人は、自分自身で結果を受け入れるのであれば、自分で決めて良いのです。
誰からも妨害されずに自分の意見を実行に移すことが許されると、ミルは言います。
人が集まれば、意見の対立が起きます。
意見の対立が起きた時に「こっちが常識だから」という理由で、片方の意見を潰してはいけません。
片方が犠牲になる形で無理矢理、意見を一致させるのは良くないのです。