JSミルは、19世紀のイギリスの哲学者です。
当時のイギリスでは、大人の中には、子どものことを自分を一部だと考えているような人がたくさんいました。
そして、政府が子どもに関する法律を作ろうとすると、ものすごい反発がありました。
政府が子どもに対して、何かルールを作ろうとすると、親はものすごい警戒心を持ちます
親は、自分自身への法律より、子どもに対する法律を嫌がるのです。
例えば、教育の場合を考えていきます。
すべての国民は、一定水準までの教育を受けるべきです。
全ての国民が教育を受けた方が、より良い社会になるからです。
この意見には、多くの人が賛成します。
しかし、いざ「あなたの子どもに教育を受けさせてください」ということになると、人々は聞く耳を持とうとしないのです。
当時の人々は、教育を受けるか受けないかは、父親に選んでもらおうと考えていたのです。
教育が無償で提供されても、子どもを学校に行かせない親がたくさんいました。
そんな中、ミルは、親は、子どもに教育をしっかり受けさせるべきだと主張しました。
子どもの身体のために食料を与えることばかりでなく、子どもの精神のために教育や与えるべきなのです。
それをしてもらえないと、子どもが不運なばかりでなく、社会に犯罪者が増えます。
不幸な子どもが多い国は、治安が悪くなります。
「その家庭のことは、その家庭に任せよう」という考え方ではダメなのです。
両立が子どもに教育を与えない場合は、政府は、両親に義務を果たすよう監視すべきのです。
子どもにどんな教育をするべきか、などの問題の話し合いに入るためには、まずは「子どもが学校に行くべき」ということが認められるべきなのです。
ミルは、教育で使うべき時間と労力が、教育をめぐる言い争いで浪費されていることがよくないと考えました。
「どんな教育であるべきか」で言い争いになるのなら、いろんな選択肢を用意しておけばいい話です。
両親たちが自分達で良いと思う場所と方法で教育をするように任せればよいのです。
また「政府がお金を用意できない」という反論もあります。
しかし、それについては、政府は貧しくて勉強できない子どもにだけ費用を負担すればいいと言います。
基本的には、学校に通わせるための費用を父親に負担させて、それが難しい家庭にだけ、政府が負担するべきです。
また、子どもを学校に行かせていない家庭があれば、父親に罰金を貸してもいいと、ミルは主張します。
また、習得した知識を保持させるために、試験は毎年一回、徐々に科目の範囲を広げながら、繰り返していくべきです。
この試験で、一定の習熟水準に達した受験者全員は、証明書をもらえるようにしておけば、子どもが教育を受けている証明になります。
しかし、一つ注意するべきことがあると、ミルは言います。
それは「教育というのは、全ての子どもをそっくりな性格にすることではない」ということです。
一般的に、教師が考える「良い性格」は「権力者によって都合のいい性格」だからです。
そうした「あるべき姿」を強制すれば、国民の精神を縛り上げることになります。
それぞれの子どもの精神を縛るのではなく、育てるために教育が生かされるべきなのです。