私は、マレーシアで生まれ、3歳で日本に来ました。
また、私の友達は、ダブル(ハーフ)や、帰国子女や、海外生まれが多いです。
海外にルーツを持つ人たちの人生相談を聞くなかで分かったことは、当事者の悩みは、言語力の問題だけではないということです。
言語力が身についても、異文化理解コニュニケーションに関する問題は続きます。むしろ大人になるほどに、その葛藤が大きくなるかもしれません。
私を含めた当事者が、どんな困難に直面し、どうやって乗り越えたのかを、ここにまとめます。
これを読むと、帰国子女がどのような困難と向き合って生活してるのか、知ることができます。
異文化理解の苦しさ
まず、異文化間コミュニケーションが苦しい理由は、本人たちが、文化に無自覚であるからだと思います。
「国によって文化が違う」ということは、みんな知ってると思いますが、何がどう違うのかを言語化するのが難しいのです。
例えば、私の父は、単身赴任でヨーロッパと日本を行き来していました。
そして、母は、5年間マレーシアに滞在していました。
一方で、私は、日本の学校に通いました。
つまり、私の周辺には、いつくもの文化が存在していたのです。
そして、私も含めて、本人は、それぞれの文化の違いに無自覚なのです。
例えば、父は「話をする時は、定義から喋るように」と私に教育しました。
しかし、私が、定義から喋っていると、日本の学校では、「堅苦しいやつ」と思われてしまいます。
父にとって「正しい」やり方は、私の学校では「正しい」やり方ではなかったのです。
こうして、私も、学校に溶け込めない人の一人になりました。
そして、大学生になり、アメリカに留学した時、私に転機が訪れました。
アメリカ人の先生は、「喋る時は、結論から話しましょう」と、私たちに教育しました。
そして、「ヨーロッパの人たちは、定義ばかり話すから、堅苦しい」と、先生は言いました。
その時に、気づいたのです。
場所によって、何が美徳であるのかなんて変わるのです。
ヨーロッパで働いていた父にとっては、定義から話すことが美徳でした。
しかし、アメリカ人の先生は、結論から話すことが美徳だと言いました。
そして、たぶん日本では、また違ったのです。
文字が読める大人たちは、その文化の違いを本で勉強できるかもしれません。
本で勉強できれば、ストレスがありません。
しかし、帰国子女は、本を読むことすら苦労します。
子どもは、いじめられたり、怒られたりしながら
傷つきながら学ぶしかないのです。
子どもだって大変
「子どもは、のんきでいいな。大人になったら大変だよ?」と、親戚のおじさん達は、よく言っていました。
しかし、子どもだって、生きるのは大変です。
なぜなら、大人の様々なニーズに応える必要があるからです。
親は、会社のやり方を、家庭内に持ち込んで、子どもに教育したがります。
一方で、学校の先生は、自分のやり方を、子どもに教育したがります。
子どもは、家では家の文化に、合わせて
学校では、学校の文化に合わせなければいけません。
あちこちで、自分をコロコロ変えなければならないのは、大変なのです。
子どもは柔軟?
このように異文化の苦しさを語ると
「それでも、子どもは柔軟だから」という言葉で片付けられてしまいます。
しかし「子どもは柔軟」なわけでは無いと思います。
子どもは、自分を抑圧するのです。
いじめられないように、怒られないように、自分を偽るしかないんです。
大人から見たら「もう文化に溶け込んでしまった」と感じることもあるかもしれません。
でも、私が思うに、文化に溶け込んだのではなくて、自分を抑圧だけなんです。
私にとっては「柔軟」と「自分を殺す」は、同じ意味です。
「ありのままで良いよ」って言われたくない
とはいえ、私は「ありのままでいいよ」なんて言われたくありません。
ありのままで振る舞えるのであれば、言われずともそうしてるからです。
例えば、私の姉は5歳で日本に来ましたが、日本に溶け込めずに、不登校になりました。
そこで、私が学んだことは、「ありのままを貫いたら、他人から抑圧される」ということです。
私は、学校に通い続けるため、「自分で自分を抑圧すること」を選びました。
私にとっては、二者一択だったのです。
私は、自分の意思で、自分を抑圧する方を選びました。
結果的には、この選択をして良かったと思っています。
なぜなら、自分をちょっと偽ることで、社会の中で生活できたからです。
何かを得るためには、何かを諦めることが必要なこともあります。
私の場合は、社会に属すために、ありのままを見せることを諦める必要がありました。
そんな私にとって、苦しかったことは「ありのままが1番」という美徳を押しつけられることです。
なぜなら「ありのまま」なんて無いからです。
世の中には「ありのままでいなさい。自分を偽る必要なんてない」と言ってくる人がいます。
しかし、そんなのは、少数派に対する「煽り」だと思うのです。
「少数派」の生き残り方
少数派の人間が、生き残るために必要なことがあります。
それは「相手が何を高く評価して、何を低く評価するのか」を観察することです。
例えば、人によって、笑顔を高く評価する人もいれば、低く評価する人もいます。
それなら、私たちは、笑顔が高く評価される場所では、笑顔で生活して
笑顔が低く評価される場所では、笑わずに生活します。
場所によって、自分を変えるしかないのです。
それを「偽る」と表現する人もいれば「柔軟に対応する」と表現する人もいると思いますが
どっちも同じ意味だと思います。
だって、社会に属したい
私は、社会に属したいタイプです。
たしかに、社会に属さない生き方も楽しいと思います。
1人の時間を楽しむ方法を知ってる人もいると思います。
しかし、私は、友達とワイワイするのが好きです。
そのためには、自分をちょっと偽ることは、必要なことでした。
だから「ありのままが素晴らしい」なんて、言わないでほしいです。
海外生まれの人間は、基本的に学校で「少数派」になります。
学校でいじめられたとしても、おいそれと転校できません。
その学校で、どうにかやっていくしかないのです。
そんな私たちは、「ありのまま」をさらけ出せる立場じゃないのです。
帰国子女に限った話じゃない
このような話は、帰国子女に限った話ではないと思います。
自分を貫いたために、社会から弾き出されてる人は、世の中にたくさんいるのではないでしょうか?
もし、「あえて」自分を貫くという生き方をしているなら、その生き様はカッコいいです。
しかし、「ありのままを見せなければ…」と、義務感に駆られた結果として、孤立してしまうのは、残念だと思います。
ありのままが1番かどうかなんて、人によるのです。
自分を貫きたい人もいるし、社会に属したい人もいます。
どっちの生き方もカッコいいのです。
自分を貫きたいAさんにとっては、「ありのまま」というキーワードが勇気をくれると思います。
しかし、社会に属したいBさんにとっては、「ありのままでいなよ」という言葉は、しんどくなります。
「ありのまま」という言葉が有益かどうかは、人によるのです。
このように「いつでも○○するべき」なんて美徳は、存在しないと思います。
場所によって、すべきことは、変わるのです。
いくら「自分にとっての美徳」を語っても
実際問題、「このコミュニティでは、何が高く評価されてるのか」にアンテナを張りながら生活しなければ、その環境に溶け込むことはできません。
ありのままを貫いたって、孤立するだけかもしれないのです。
自己主張できる人が偉いのではなくて、自己主張が求められたタイミングで、それができるのが偉いのです。
だから、自己主張した方が損する時は、自分を隠していてもいいのだと思います。
もし、「自分を見せるのが怖いんだね」と煽られたら、ダーウィンの言葉を言い返せばいいと思います。
日本に住んでる場合は、臨機応変に変化できた方が、偉い人に気に入られやすくなります。
偉い人に気に入られたら、結果的に、やりたいことができるようになります。
私は、日本に住み続けるつもりなので「相手に合わせてるフリ」をスキルとして磨き続けたいと考えています。
自己主張って必要?
いろんなバイリンガルの人たちと関わる中で感じることは、「自分を持ってる人が多い」と言うことです。
自分を持ってるからこそ、自分を上手く隠さないといけない時があるのだと思います。
ここまで読んだ人の中には「自分を隠さずに、自己主張したら?」と疑問を持つ人もいると思います。
たしかに、世間一般では、「自己主張」は「良いこと」とされています。
しかし、本当にそうなのでしょうか?
たしかに、私のようなブロガーにとっては、自己主張はお金になります。
しかし、学校に通う子どもにとっては、自己主張すると、リスクが伴います。
「出る杭は打たれる」日本では、自己主張をすると、いじめのターゲットになってしまうのです。
私が思うに、自己主張は、社会と関わらなくても生活できる人の特権だと思います。
例えば、YouTuberは自己主張ができます。
YouTuberが自己主張して、リスナーから嫌われても、その人は困りません。
なぜなら、ネット上で嫌われても生きていけるからです。
でも、学校に通う子どもが自己主張して、周りの人から嫌われると、困るのは、本人です。
たしかに、自己主張できる環境を整えることは、大事です。
私も、自己主張してくれる人の意見は大事にするようにしています。
しかし、環境が整ってないのに、子どもに自己主張するように強制したら、子どもが苦しいだけだと思います。
子どもは、自己主張する能力がないのではなくて、意見を聞いてくれる人がいないだけなのです。
自己主張できない日本で暮らせば、海外の人ですら、自己主張しなくなります。
人は生い立ちではなくて、環境によって、性格が変わるのです。
では、どうやれば、自己主張ができる子どもが育つのでしょうか?
それは、自己主張することで得をする社会を作ることだと思います。
例えば、私がアメリカに留学していた頃は自己主張をたくさんしました。
授業中も積極的に手をあげました。
なぜなら、その方が成績が良くなるからです。
しかし、日本に帰国してからは、自己主張をやめました。
なぜなら、日本では、自己主張をするメリットがないからです。
自己主張することで、社会から弾き出されてる大人が近くにいれば、子どもは自己主張しない道を選ぶのです。
それぞれの生き方
最近、グローバル化が進んでいます。
日本に住む外国人も増えていますし、海外にルーツをもつ日本人も増えています。
きっと、自分と価値観の違う若者に出会う機会も増えるかもしれません。
ただ、自分と違う価値観の若者がいても、「説き伏せなければ…!」としなくてもいいんじゃないかな、と思います。
その人の価値観があなたと違う理由は、「その人が劣っているから」ではなくて「あなたと生い立ちが違うから」です。
人は18歳頃に、価値観が形成されるそうです。
ヒトがチンパンジーにならないのと同じで、その若者は、あなたと同じ人間にはなりません。
そのため、「自分の生き方を、若者に伝授しなきゃ」と一生懸命になる必要はないと思います。
たしかに、教えてあげることは、良いことですが
相手の人生の主導権を奪おうとしたら、嫌われるんじゃないかな、と感じます。
あくまでも、アドバイスは指示ではないはずです。
全ての人間を救うアドバイスは存在しません。
それを知ってる上で、アドバイスをしてくれる大人は、素敵だと思います。
よく「若者の脳みそはスポンジのようだ」と表現する人がいます。
たしかに、どんどん吸収してくれる若者もいます。
しかし、若者が全てを吸収するわけではありません。
若者が大人のアドバイスに従うのは、その人が「アドバイスに従った方が得だ」と思った時だけなのです。
もし、相手があなたのアドバイスを大事にしないのであれば、きっと「その人の人生には」その言葉は必要ないのです。
価値観の違い
人によって、価値観は違います。
その具体例を紹介します。
例えば、アメリカでは、人の話を遮って喋ったとしても「積極的で素晴らしい」とすら評価されることがあります。
しかし、日本では、話を振られてから喋るのが普通だと思います。
他の例でいうと、日本では相手の面子を守ることが大事ですが、オランダでは自分の意見を伝える方が大事なようです。
また、インドでは、友達とよい関係を築くために、用がなくても、友達に電話するのだそうです。しかし、それを日本人にやると、煙たがられると思います。
また、バングラデシュでは、「先回りして」問題を解決しようとする人が多いので、誰かが不機嫌になると、周りの人は、積極的にその人に話しかけるのが普通なのだそうです。
でも、日本なら「触らぬ神に祟りなし」ということで、放置をする人が多いと思います。
このように、国によって文化が違いますし、人によって性格が違います。
私は、ここでステレオタイプについて話したいわけではありません。
私が伝えたいことは、「美徳は、人によって違う」ということです。
人間は、一人ひとり、性格が違います。
そのため、社会に属したいのなら、相手が何を美徳としているのかを、一人ひとり理解して行くしかないのです。
最後に
私は、バイリンガル育児がダメだとは、思いません。
どんな生き方にも、良い部分と悪い部分があると思います。
ただ、知っててほしいことがあります。
それは「何を美徳とするのかは、人によって違う」ということです。
もし「私はこの世の善悪を全て知ってる」みたいな大人が近くに複数人いたら、子どもは大変です。
なぜなら、相手によって、「柔軟に(自分を殺しながら)」対応しなければいけないからです。
大人から見ると、バイリンガルの子どもが「自分を偽ってる」と感じるかもしれません。
でも、そうさせてるのは、環境なのです。