ジョン・スチュアート・ミルは、規律も大事だけど、規律を重視しすぎるのは良くないと考えました。
なぜそのように考えたのか見ていきます。
個性と規律
人には、個性があります。
個性は、欲求や衝動を持っています。
また、社会には、規律があります。
規律があるから、社会は、人の衝動を抑えて、秩序正しく生活させることができます。
規律があるおかげで、社会に秩序が生まれるのです。
個性を抑えつけすぎ
規律があるおかげで、社会に秩序が生まれます。
とはいえ、規律が強すぎるのも問題です。
なぜなら、規律が強すぎると、個性が潰れてしまうからです。
ミルは、人々が規律に縛られすぎていることに危機感を覚えました。
個性を潰してはいけない
社会は、欲求や衝動を持っている人を、統制しようとします。
しかし、統制するチカラが強すぎると、個性が潰されて、人が無気力になってしまいます。
規律は、人々の「性格」を奪うのです。
ミルは、性格を持たない人は、蒸気機関と同じだと言います。
ミルが危機を感じたのは、個人の衝動や好みが欠如してきているからです。
活力を使いこなそう
ミルは、欲求や衝動を持った個性が発展していくのを促すべきだと主張しました。
人間には、本性があります。
この本性がイキイキしてる時に、人間は、活力に溢れるのです。
衝動に従って生きてる人は、活力が高いということです。
活力は、人を成長させるエネルギーを持っています。
活力に溢れる人が世の中に増えたら、その分だけ社会が良くなるのです。
だから、衝動は大切にするべきだと、ミルは主張しました。
欲求や衝動は、本性の表現です。
本性を表している人が、生まれた素質や能力を磨くことで、理想的な自分になることができるのです。
生まれ持った個性を、磨く人が「性格を持つ」と言われている人なのだそうです。
「○○をしたい」という衝動が自分自身の中から湧き上がってくる人は、活力に溢れます。
さらに、その衝動を自力でコントロールできる人は、活発で精力的な性格になるのです。
一方で、欲求や衝動が自分自身のものでない人は「性格を持っていない」ということなのです。
反論
反論として、「個性は規律を乱す」という考え方もあるかもしれません。
たしかに、個人の欲求や衝動が強すぎたら、統制しづらいと感じるかもしれません。
しかし、それでも、個性は大事なのです。
なぜなら、個性があるから、自発性が生まれるからです。
もし、欲求や衝動がなくなってしまえば、その人は、萎縮した人間になってしまいます。
そしたら、社会は、発展していくことが難しくなります。
萎縮した矮小な人間が「真面目で偉い」わけではありません。
欲求や衝動も大事なのです。
意見の多様性が大切な理由
① 世間一般の意見が間違ってる場合
まず、みんなが信じてる常識が間違ってたパターンについてです。
そしたら、新しい意見のおかげで、常識の間違いに気づくことができます。
② 世間一般の意見が正しかった場合
世間一般の意見が正しかったとしても、反論に、反反論する中で、さらに意見の深さが分かる場合もあります。
となれば、一周回って、もともとあった意見の素晴らしさに気づくことができるかもしれません。
そのように、反論に反反論する中で、もともとあった結論に戻ってくることがあります。
しかし、戻ってきた場所は同じでも、その意見の素晴らしさにより深い確信が生まれるのです。
③ 世間一般の意見も正しいし、新しい意見も正しい、両方とも一理ある場合ケースもあります。
対立する2つの意見のうち、どっちかが間違ってるというわけでもなく、両方とも一部は合ってる
そんなこともあります。
こういう場合は、両方とも正しいので、補足として、反対意見が必要となります。
少数派を抹殺したい人たちは、まるで他の意見が世界にはないかのようにして、自分の意見だけを他人に教え込みます。
しかし、反論に対して、気持ちをオープンにしておくべきです。
なぜなら、目を向けておくべきだったのに、そうしていなかったことで、論敵から、それを指摘されるからです。
敵から指摘されば、それだけ一層その真理を激しく拒否したくなるのが普通です。
反論されたくないのであれば、意見を無視しない方がいいのです。
討論で誰が得をするのか
こうした意見の衝突によってメリットを得るのは、意見を言い合ってる人たちではありません。
傍観者たちです。
冷静に公平に物事を判断できる人たちは、討論を見て、新しい視点から物事を見れるようになるので、得をしています。
1番ヤバいのは、誰かのアイデアがひっそりと抑圧されることです。
自分の意見を言うことで、他人から抑圧される社会では、自分で自分を抑圧するしかありません。
こうして、誰かのアイデアを聞くチャンスが知らず知らずのうちに消えてしまっているのが一番もったいないのです。
人が両方ともの意見に耳を傾けざるをえない時には、いつでも望みがあります。
片方の意見しか聞かない時こそ、間違いが偏見にまで凝り固まってしまいます。
最初は、正しかった意見も誇張される中で、ウソになってしまうかもしれません。
それで真理の持ってる意味を失うのです。
意見の片側しか聞いてない時は、なかなか公平な判断はできません。
人は、両方の意見を聞いてこそ、公平な判断ができるようになるのです。
少数派の意見を聞くべき4つの理由
①少数派に沈黙を強制したとしても、その意見は、もしかすると真理かもしれません。
これを否定することは、無謬性を仮定しています。(間違ってないことにしようとしてしまっています)
②沈黙させられてる意見が間違ってたとしても、そのうちの一部は、正しい部分もあるかもしれません。
全て間違い、というわけではないかもしれないのです。
つまり、世間一般的な意見の補足として、少数派の意見も必要なのです。
③世間一般で言われてる意見が、正しかったとしても、偏見の形で信じれてることもあります。
反論される中で、活発な言葉が生まれれば、改めて、意見の本当の意味について気づくきっかけになるはずです。
④伝言ゲームのようにただ受け売りの言葉が広まるとその意見の本当の意味が忘れられます。
教義は、単なる形式的な口先だけの言葉になり、良いことのためには役立たず、むしろ地面を塞ぐだけで、実感のこもった本物の確信が理性や個人的経験から成長していくのを防げることになってしまいます。
そこに新しい意見があることで、より活発な考え方になるのです。
最後に
人が個性を持っているのは、潰すためではありません。
磨いて、開花させるためです。
人が美しいのは、個性的なものが潰されて画一的にされているからではありません。
個性が引き出されて、磨かれているからなのです。