社会はどこまで個人に干渉して良いのか?JSミルの『自由論』で考える

JSミル

周りからの干渉は、時には「人助け」になるのかもしれません。

しかし、時には「自由の侵害」になります。

干渉はどこまで許されるのでしょうか?

個人に対する社会の干渉の限界

社会(周りの人たち)は、個人の行動になんでも干渉して良いわけではありません。

ミルは、本人に関わる部分と、社会に関わる部分を区別することが必要であると主張しました。

社会(他人)に関わる部分であれば、社会(周りの人)は、干渉が許されます。

例えば、人を殴ったら、社会(他人)に関わります。

だから、その人は、社会的非難をされます。

他人に損害を与えている場合、その問題は、社会に関わるのです。

社会に関われば、道徳や法で裁かれるようになります。

一方で、自分で自分を殴る人がいても、社会は干渉するべきではありません。

なぜなら、それは、本人に関わる部分だからです。

例えば、人生を粗末にするような生き方をしていたとしても、これは個人の自由なのです。

ジャン=ジャック・ルソーも、「火に触らせたい子どもがいるなら、触らせてあげればいい」と言っています。

なぜなら、人は、火が熱いという事実は我慢できるけれど、他人からの束縛には我慢できないからです。

個人の自由

『自由論』の中では、個人の判断はその人に委ねるべきであると主張されています。

なぜなら、その結果を受け入れるのは本人だからです。

失敗を受け入れるのが本人なので、本人が自分で決めて生きるべきなのです。

干渉する人

他人に干渉したがる人はどこの国にも、どの時代にもいます。

また、その人をコントロールするために、稚拙な手段に訴える人もいるかもしれません。

このような人は、自分の信念を他人に押し付けることを「勇気」と呼ぶようになります。

面と向かって攻撃を加える事が勇気のしるしだと容易に考えるようになってしまうのです。

たしかに、中には、正論を言う人もいるかもしれません。

しかし、そうした攻撃をするような人は、的外れな発言をする可能性も高いです。

人々が信じている「道徳」が正しいとは、限りません。

多数派の意見は、間違っていることがしばしばあるのです。

なぜなら、彼らは「自分がどう感じるか」を最優先にして、判断をしているからです。

相手の意向や事情には無関心で、「好きか嫌いか」しか考えないのです。

束縛が有害な理由

また、そのような束縛は有害です。

なぜなら、強制される側の人々が、活発で自立的な性格を維持するためには、自分の判断力を使い続ける必要があるからです。

本人に、活力がある限りは、人は束縛に反発します。

この場合、束縛したい人の意見と、束縛されたくない人の意見が同列に扱われるべきではありません。

これは、泥棒が財布を盗みたいと思う欲求と、財布を守りたいと思う欲求とが、同列に扱えないのと同じです。

個人の行動は、その人の財布と同じように、持ち主の所有物なのです。

道徳をどう使うのか?

それでは、私たちは、道徳をどう使えばいいのでしょうか?

ミルは、道徳的な行動を他人を引きずり落とすために、取り締まりとして使うことが有害であると主張しています。

道徳を「他人を支配するために」使うべきではないのです。

道徳は、自分の人生の中で使っていけば良いのだと思います。

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