自由とは、人から嫌われることなのか?JSミルの『自由論』から考える

ミル
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嫌われる人にはニつのケースがあると、ミルは考えます

①周りに害を与えていて嫌われているケース

②個性が独特だから嫌われているケース

それぞれを見ていきます

害を与えているケース

一つ目に、周りに害を与えた結果、周りから嫌われたケースです。

この場合は、嫌われてる人が悪いです。

なぜなら、他人に危害を加えてはいけないからです。

人に危害を加えた結果、嫌われたのであれば、それは、他人に危害を加える人が悪いのです。

自分のやりたいことをドンドンやることは、個人の自由です。

しかし、他人に危害を加えた時点で、それは「個人の自由」の領域を、はみ出します。

法的処罰の対象にならなくても、世論から道徳的非難を受けることになるのです。

自衛を目的としている場合、個人の自由に干渉することが、正当となります。

逆に言えば、個人の自由に干渉することが、正当となるのは、自衛を目的としている場合だけなのです。

性格が個性的すぎるケース

次に、性格が個性的すぎて嫌われるケースについてです。

これについては、嫌う人が、不寛容です。

なぜなら、個人の自由に干渉していいのは、自衛を目的としている場合だけだからです。

人々は、お互いの生き方を許し合うべきなのです。

「個性が独特だから」という理由で、その人を攻撃するのは、悪いことです。

他人に危害を加えていないのであれば、その人が何をしていても、その人の自由なのです。

たしかに「人生を無駄にしてる人」が近くにいると、気になるかもしれません。

しかし、その人に関心を持たなければ、周りは影響を受けることはありません。

なので、気にせずに放置すれば良いのです。

反論

常識を重んじる人たちは、次のように考えます。

社会で生きていくためには、好き勝手やるべきではないと言う考え方です。

たしかに、道徳や習慣による規則は、正しいように見えます。

しかし、このような社会は、良くないと、ミルは考えます。

なぜなら、個性が抑制されて、開花できなくなるからです。

結果として、画一化された人間しか育たなくなってしまいます。

これは自由な社会ではないのです。

多数派が少数派を潰そうをすると、少数派の意見を表に出さないように仕向けたり、意見を広めるのを控えさせたりしてしまいます。

こうなると、人類の進歩が足止めされるのです。

恐怖が個人の自由を奪う

人は、「世論に嫌われるのは怖い」と感じるものです。

「社会的汚名を着せられるかもしれない」という恐怖は、個人の自由を奪うのです。

「異端者だと思われたくない」という恐怖は、人々を萎縮させます。

そして、精神の発展が締め付けられ、理性が怖気付くのだと、ミルは言います。

たしかに、他人に頼らなくても生きていけるほどのお金持ちは、社会的汚名は怖くないかもしれません。

しかし、それ以外の全ての人の場合は、世論で罰せられることは、法律で罰せられることと、同じくらい影響力があります。

人から嫌われると、生活しづらくなります。

それが怖くて、人は自分の意見が言えずにいるのです。

しかし、このような人目を気にしないといけない社会は、個人の才能が発揮されないのです。

自由な社会とは

自由な社会では、知性は、思想の世界に輝きを与えます。

自由な社会で活躍するのは、何事も包み隠さず、恐れることのない性格や論理的で首尾一貫した性格の人です。

探究心を持った積極的な人が、新しいアイディアを出すから、人類は進歩するのです。

自由じゃない社会とは

しかし、自由じゃない社会では、活躍できるのは、ありふれた議論に従うだけの人か、その時々の都合に合わせて自分の意見を変える人だけです。

こんな社会では、探究心旺盛な知性を持つ人たちが、本音を胸のうちに隠すようになります。

なぜなら、自分の本音を話すより、世論に合わせる方が得だからです。

これでは、以前は思想の世界に輝きを与えていたような知性は育たないのです。

最後に

嫌われることを恐れなければいけない社会では、知性が磨かれないと、ミルは言います。

人々は、他人に危害を加えない範囲で、自由に生きることを許されるべきなのです。

なぜなら、人は、自分の本心に従っているときに、才能を開花できるからです。

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