現代では、アメリカの貧富の格差がどんどん開いています。
また、日本も、このまま手を打たなければ、貧富の格差が開くと言われています。
貧富の格差が開くと、困るのは貧困層だけでしょうか?
いえ、そんなことはありません。
貧富の格差が開くと、社会全体が不利益を被ります。
その理由を解説します。
貧富の格差が広がることのデメリット
貧富の格差が大きくなると、社会全体にデメリットがあります。
その理由は、「努力しても報われない」という空気が広がるからです。
もし、努力したら報われると分かっていれば、みんなが努力をして、世の中により良いものが次々に生まれます。
しかし、貧富の格差が広がりすぎると、努力をしてもお金持ちになれなくなっていきます。
格差のある社会では、親がお金持ちの家庭の子どもがお金持ちになるのです。
お金持ちの家を生まれれば、子どもは努力をしなくても、ある程度は安定した生活を送ります。
また、努力をしても、生まれが貧しい子どもは、貧しい人生を生きるのです。
格差がある社会のことを、「ソーシャルモビリティの指数が低い社会」とも言います。
ソーシャルモビリティの指数が低い社会では、生まれた階級から脱却するのが困難です。
努力しても報われないと分かっていれば、努力をしなくなってしまいます。
そうすると、世の中に、より良いものは生まれなくなっていくのです。
努力ができるのは希望があるから
現在の社会は、「能力がある人がより高い賃金をもらえる」というルールの下に動いています。
努力をすれば、能力が上がるので、たくさんお金を稼ぐことができます。
その希望があるから、人々は、努力をするのです。
しかし、格差社会が広がると、その希望が失われてしまうのです。
お金持ちは、さらにお金持ちに
経営者は、自分の賃金を自分で決めることができます。
能力がなくても、自分の賃金を高く設定できることもできるのです。
特に、景気が良くなれば、経営者は、自分の取り分を増やすことができます。
景気が良くなるか、悪くなるかは、運です。
景気が良くなれば、企業は儲かるかもしれません。
しかし、それは、経営者が優秀だったから、儲かったわけではないのです。
また、日本では、景気が良かった時期でも、労働者の賃金はさほど上がりませんでした。
このように、労働者の賃金が上がらなくて、経営者の賃金だけが異常に跳ね上がる現象を「幸運の対価」といいます。
これでは、労働者が技術向上に価値を見いだせなくなります。
つまり、努力するモチベーション自体が失われてしまうのです。
こうして富の格差はますます拡大していくのです。
税金を増やすべき
ピケティの主張は「税金を増やすべきだ」というものです。
なぜなら、不平等は、個人では、コントロールできないものが原因だからです。
例えば、お金持ちの家に生まれたとか、景気の波に乗って、収入が異常に跳ね上がったりなどです。
このような幸運によって、不平等はつくられています。
本来であれば「努力した分、お金が手に入る社会」であってほしいです。
しかし、そうではないのです。
運によって不平等が生まれるなら、貧しい人を「自己責任」と言って、切り捨てるべきではありません。
そこで、政府がもっとも貧しい人を救済するべきなのです。
そのためには、お金持ちの人たちに、税金を納めてもらう必要があります。
ピケティとマルクスの違い
マルクスも「お金持ちばかりトクをしてて、ズルい」と言っていたので、2人の意見を比較します。
ピケティは、「努力してないのにお金だけもらってる資本家」を批判しました。
一方で『資本論』を書いたマルクスが考えた資本論とは「働く資本家」です。
人を安く、長時間、働かせて「搾取する人」というイメージです。
機械を買って、労働者を監視して、会社の頂点に立つ人のことを、マルクスは「資本家」と呼びました
彼らは、会社での利益を自分のものします。
本人も働いているので、努力の対価として「報酬」の形で受け取るということです。
しかし、問題なのは、アダムスミスが言ったように、「努力した量」よりも多くの報酬をもらっている場合もあります。
なぜなら、頑張った分、報酬をもらえるのではなくて、もともとお金を持ってれば、お金を増やしやすいからです。
報酬は、努力の量に比例するのではなく、資本の量に比例するのです。
一方で、ピケティが描き出す資本家には、働く資本家だけではありません。
何もしないでお金持ちになる資産家も含まれます。
もともとお金があるから、ファンドマネージャー(お金を増やす活動をしてくれる人)を雇って、楽してお金を増やすのです。
マルクスの思い描く資本家は、努力をします。
しかし、ピケティが思い描く資本家は、努力すらしません。
マルクスに対して、「資本家も働いている」と反論できますが、ピケティに反論するのは難しいのです。