ベンサムの快楽主義をイラストで簡単に分かりやすく解説

ベンサム
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ベンサムは「人は、お気に召すままに生きれば良い」と考えました。

彼は、快楽主義者です。

どんな考え方なのか見ていきます。

快楽主義とは

快楽主義とは、快楽を求めて苦痛を避けるべきであるという考え方です。

人は何が幸福であるかわからないほど無知ではありません。

人はその最良の主人として自分自身の経験によって何が幸福であるかを知っています。

人は、”AS YOU LIKE(お気に召すままに)”で生きていけば良いのです。

人は自分の「主観性」にあった幸せな人生を作るべきです。

主観性とは、人のあるがままの「欲求」ということです。

「快楽」や「苦痛」など、全ての人がみんな経験したことがある、最も単純な感覚に従って生きていれば良いのです。

ベンサムの幸福論は、快楽は善であり、苦痛は悪であるとする考え方です。

快楽主義の考えでは、幸福が善です。

そして、不幸が悪です。

幸福が、道徳的に善である理由は、それが快いからです。

不幸が、道徳的に悪である理由は、それが悲しいからです。

快楽を求めることが、道徳として正しい行動なのです。

ベンサムは、快楽を求めれば、道徳的に正しい人間になれると主張しました。

反論

ベンサムへの反論として「人間は快と苦痛ででしか判断しないほど、単純じゃない」という意見もあります。

しかし、ベンサムはわざと、単純な感覚を大切にしました。

なぜなら、人は褒められたら快楽を感じるからです。

「褒められたら気持ちいい」という感覚を大切にして、人々に道徳を思い出してもらおうとしたのです。

「自分がされて嬉しいことを他人にしよう」という気持ちは、大切です。

「褒められたら気持ち良い」という感情を利用して、ベンサムは、道徳的な社会を作ろうとしました。

功利主義

ベンサムは、功利主義を主張しました。

功利主義とは、結果的に多くの快楽を生んでいれば善で、多くの苦痛を生んでいれば悪だという考え方です。

功利主義の考え方では、幸せになる行動が善であり、不幸になる行動が悪です。

では、なんの努力もせずに自分の欲望の赴くままに生きていいのでしょうか?

他人を不幸にする場合はダメです。

ここでベンサムは「快楽計算」を紹介しています。

快楽計算

快楽計算では、幸せはプラスで、不幸はマイナスです。

自分を幸せにしても、他人を不幸にしてしまう場合は、マイナスになります。

幸福計算がマイナスにならない範囲で、お気に召すままに生きて良いということです。

行動から生じる結果が、多くの快楽を生んでいれば善で、多くの苦痛を生んでいれば悪ということです。

最大多数の最大幸福

最大多数の最大幸福とは、よりたくさんの人が、最大の幸福を手に入れている状態です。

ベンサムは「最大多数の最大幸福を作ろう」と主張しました。

世界は、ただの人の集まりです。

人がそれぞれ幸せになれば、世界全体が幸せになります。

最大幸福とは、幸せが1番大きくなることです。

最大多数とは、より「たくさんの人」という意味です。

それぞれの人が自分を幸せにすることで、最大多数の最大幸福を作ろうとしたのです。

一人一人は、全世界の幸せを考える必要はなくて、自分の幸せを考えていればいいです。

しかし、それぞれの人が最大幸福を追求するようになれば、結果的に最大多数の最大幸福が実現します。

ベンサムは、人間の本性として「みんな自分を優先して生きている」と考えました。

人は、他人の幸せより、自分の幸せを優先してしまう本性があるそうです。

それ自体は、悪いことではないとベンサムは考えます。

むしろ、幸せは義務なのです。

人間は、自分の幸福を最大化するように行動すればOKです。

つまり、”AS YOU LIKE(お気に召すままに)”で生きていけばいいのです。

それぞれの幸せ

全ての人が目指すべき幸福というのは存在していません。

幸せのあり方は、人それぞれです。

Aさんの幸福と、Bさんの幸福は、違って良いです。

Aさんは、Aさんにとっての幸福を誰にも相談せずに、追求してOKです。

Bさんも同じです。

BさんもBさんにとっての幸福を誰にも相談せずに、追求してOKです。

全世界の幸せは、一人一人の幸せが積み重なって出来ています。

幸せな人が増えるほど、世界全体の幸せが増えます。

だから人は、自分が幸せになることを考えればいいのです。

ベンサムは「最大幸福原理」という言葉を使って、「人は自分を幸せにして良い」ということを皆に伝えようとしました。

時代背景

なぜ、ベンサムは、このような意見を出したのでしょうか?

その理由は、当時の時代背景にあります。

当時のイギリスでは、「この世で苦しんだ人ほど来世では幸せになる」と信じられていました。

当時は、どちらかといえば、「善→苦しい」「悪→楽チン」というイメージがありました。

「快楽を求める」なんて、悪い奴だ、と思われていたのです。

そんな中、ベンサムは、快楽を求めていい!と主張しました。

「我慢が美徳」と考えられていた時代だったため、ベンサムの意見は、人々を驚かせだそうです。

ベンサムは「人は義務としてその人の人生で幸せにならないといけない」と主張しました。

あの世ではなくて、この世で幸せになるべきだ、というのがベンサムの幸福論です。

周りの人と自分を幸福にしそうなことはやるべきだし、不幸になりそうなことはやらない方がいいです。

人生の目的は幸せになることで、苦しいことをあえてやる必要はありません。

人は幸せになるために生まれてきました。

そのため「あの世で幸せになればいい」というわけではなくて、この世で幸せになる必要があるのです。

金持ちだけ幸せになるのは良くない

また、ベンサムが嫌がったのは、お金持ちのみが幸せになることです。

一部のお金持ちの人が幸せになるために、たくさんの貧しい人が苦しむのは良くないと考えました。

一部のお金持ちというのは、具体的にいうと「君主」「貴族」「大地主」です。

そのため最大多数の最大幸福という言葉を使いました。

ベンサムは、全員が幸せを求められる社会を作ろうとしました。

多数の利益のために、少数の人が犠牲になることもあります。

この「少数の人」というのは、「少数派」という意味ではありません。

少数とは、貴族やお金持ちの人のことです。

生活に余裕がある人に、ちょっと我慢してもらう場合がある、ということです。

多数の弱者のために、少数の恵まれている者の利益が減少することもやむを得ないのです。

政府の役割

個人の役割は、幸せになることです。

そして、政府の役割は、社会全体の幸福を最大化することです。

ベンサムは、「快楽を求めていい」と言いました。

しかし、みんなが好き勝手やったら、世の中がおかしくなるかもしれません。

そのため、それを調整する役割として、政府と法律があります。

政府は、褒賞と刑罰、つまり、快楽と苦痛を人に与えます。

物を盗みたいと思っても、盗んだら刑罰によって快楽以上の苦痛を味わうことを知って知るので、人は犯罪をすることをやめます。

このようにして、政府は、国民を治めます。

政府の義務は、それぞれの市民がその最大幸福を獲得するための「場」を整えることなのです。

犯罪について

犯罪がダメな理由は、最大多数の最大幸福を実現できないからです。

なぜなら、盗んだ人が得る幸せより、盗まれた人が得る痛みの方が大きいからです。

だから、犯罪は、全体で見るとマイナスなのです。

さらに、不安という二次被害も起きます。

彼は、政府の目的は共同体の幸福です。

政府は、犯罪をした人に、刑罰を与える際には

共同体に降りかかった「損害」について説明しなければならないとベンサムは言いました。

この損害には被害者がうけた損失という「一次的な」損害だけでなく、共同体にもたらされた危険や不安という「二次的な」存在も含まれています

危険とは犯罪行為から危害を受ける現実的な可能性を意味します。

また、不安とは犯罪行為から危害を被ることに対する恐怖感を意味しています。

危害を加えたら、悪いです。

さらに、不安を与えることも悪いことなのです。

そのため、ベンサムは、処罰と報奨で、犯罪をなくそうとしました。

刑罰には、抑止効果があります。

スリの立場からこの状況を考えてみます。

義務としての幸福追求

幸福になることは、みんなの人生の義務であると、ベンサムは言います。

なぜなら、人生の目的は、幸福になることだからです。

ベンサムいわく、市民の義務は、最大幸福を獲得することです。

最大幸福を獲得している市民の人数を増やし

この人数を最大多数化することが、私たちのゴールです。

理想社会は、最大幸福を獲得している市民の数が、最大化する社会なのです。

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