全体主義
「全体主義」とは、みんなで一つの目標を目指して一致団結するような社会のことです。
「社会」とは、人の集まりのことです。
ハイエクは「全体主義は良くない」と考えました。
全体主義になると、倫理がなくなる
ハイエクが全体主義は良くないと考えた理由の一つは、全体主義が広がると、倫理がなくなってしまうからです。
みんなが一つの目標に向かって突き進んでいる時は、人々が、今までの倫理観に従う余裕がなくなってしまうのです。
一つの目標のために、国民は、自分を犠牲にして貢献しなければいけません。
与えられた目的を達成するために、今までの倫理観すら、破る必要があります。
全体主義になると、みんなで一つの価値観を持つようになります。
そして、他の価値観が蔑ろにされるようになります。
そんな時は、残酷な仕事をしなければいけなくなることもあります。
例えば、捕虜を銃殺する、高齢者や病気の人を殺すといったことです。
そのような残酷なことも、目的のための手段としてしょうがないことだと考えられるようになるのです。
さらに、みんなが同じ価値観を持ってる時は、その価値観に逆らうこと自体が危険になります。
そのため、当事者以外のほぼ全員が賛成したり、目標達成のために仕方がないこととして受け取られるようになります。
全体主義では、みんな目標のことしか考えていないので、何事もそのために正当化されるようになるのです。
個人の価値観が大切にされない
全体主義になってしまうと、個人の権利や価値観が大切にされなくなります。
目標を決めるのは政府の役割で、国民は従うだけです。
手足となって動く国民は、自分の倫理観を持ってはならない、と考えられるようになります。
国民がするべきことは、政府に無条件に従うことです。
次に重要なのは、自分の倫理観を持たないで、何も主張をせずに、命じられたことを何でもすることです。
個人的な理想も、善悪の基準も持ってはいけなくなります。
個人の議論は、指導者の理想を妨げる可能性があるからです。
悪い人がトップになりやすい
このような社会のトップに立とうとする人は、人を服従させる快感が好きな人です。
良心のかけらもない冷酷な人が、能力を発揮しやすい状況になります。
全体主義が広がると、今までの倫理観を持ってる人ほど尻込みをしてしまいます。
一方で、残酷なことを平気でやれる人間が昇進するようになります。
思想の自由がなくなる
たいていの人は、めったに自分から考えようとはしません。
特に、社会人になると、基本的には、他人の意見を鵜呑みにしながら、他人と価値観をすり合わせながら生きる必要があります。
そう考えれば、そもそも思想の自由は必要ないのかもしれません。
人は自分の周りの人から言われた言葉を受け入れて、働いていれば、給料がもらえて、食べていくことができます。
たいていの人は、自分の頭で考えないでも、生きていくことができます。
思想の自由がある社会ですら、人々は、自分で考えて行動しようとはしないのです。
しかし、だからといって、国のトップの人だけが思想の自由があって、国民は思想の自由を持ってはいけない、と言う社会を作るのは危険すぎると、ハイエクは言います。
誰であれ、他人の思想を支配しようとする国のトップの人がいたら、その人は傲慢です。
人のトップに立つということは、他人から思想の自由を奪って良いと言う理屈にはなりません。
進歩を妨げる
思想の自由を奪うと、人類の進歩を妨げることになります。
思想の自由が大切な理由は、思想の自由が、人類の知の進歩の原動力となってきたからです。
思想の自由と言うのは、自分の考えを日記に書いていいと言う意味ではありません。
自分の考えを発信していいと言う意味です。
この違いは極めて大切な話です。
反対意見が抑圧されない社会では、多数派の主張に異議を唱えてくる人が必ず出てきて、私たちの常識を吟味することができます。
みんなで間違ってしまっているときに、その間違いに気づいて、自分の意見を発信する人も現れます。
そういう社会だから、みんなで間違えるというのを防ぐことができるのです。
異なる知識や異なる意見をぶつけ合うようなやりとりがあるからこそ、思想は新鮮さがあります。
知の進歩と言うのは、あらかじめ分かっていることではないので、
既存の知識でコントロールできるものでもありません。
政府の人が、人々の考え方をコントロールしようとすれば、必ず進歩を妨げることになります。
進歩全体を計画するとか、組織するとかと言う言い方はそもそもできないのだ、とハイエクは主張しました。