人には、言論の自由があります。
自分の意見を表明するのは、個人の自由なのです。
たしかに、発信をすれば、不快感を示してくる人や、批判してくる人がいると思います。
それでも、人には発信する自由があるのです。
この記事では、ジョン・スチュアート・ミルが『自由論』で述べた内容について、見ていきます。
言論の自由
人には、言論の自由があります。
言論の自由とは、考えたことを発信する自由のことです。
他人から、「間違ってる」「常識外れだ」と言われたとしても
自分の意見を発表していいのです。
世の中には、発信をする人を攻撃したがる人がいます。
彼らは、間違っていると自分が判断したものを
誰の耳にも届かないようにしたいと考えるのです。
しかし、これは、有害なことであると、ミルは主張しました。
進歩を妨げてはいけない
発信する人を黙らせようとするのは、害があります。
なぜなら、それは進歩を妨げる行為だからです、
平均的な人々は、新しいアイディアに対して、警戒心を抱きます。
新しいアイディアを出しただけで、被告人のように、裁かれるのです。
しかし、新しいアイディアを発表することを邪魔するのは悪いことです。
なぜなら、その新しいアイディアは、人類を進歩させるかもしれないからです。
それに、もし、的外れだったとしても
私たちが信じてる常識をあらためて確認するチャンスになります。
しかし、世の中には、その意見に賛成できないから、その意見を抑圧することが自分の義務であると、勘違いしていまう人がいます。
しかし、ミルいわく、自分に合わない人がいたら、ただ距離を置くしかないのです。
黙らせようとか、導いてあげようとかする必要はないのです。
常識より進歩が大事
平均的な人々は、「常識」を学ばないと、どうやって生きたらいいか分からないと、ミルは言います。
だから、彼らは「常識」を頼って生きているのです。
このような時代には、それが真実かどうかより、世間がそれを真実と信じているかどうかの方が大事なのです。
こんな社会では、新しいアイディアを出すことができなくなってしまいます。
そしたら、国が進歩しなくなるのです。
無謬性の想定
ミルは、無謬性の想定は悪いことだと主張してます。
無謬性とは、「間違っていない=絶対に正しい」という意味です。
つまり、間違いはない(ことにする)ということです。
間違いがあったとしても、あらゆる理屈で正当化する、というニュアンスを含んでいます。
ミルが、無謬性の想定と呼んでいるのは、
誰かの意見に、他の人々が耳を傾けることを許さないことです。
その聞く人たちを黙らしたまま、勝手に自分が代表して、自分の意見を、みんなの意見の代表みたいな感じにして、意見を言うことです。
ミルは、これは良くないと批判しました。
他の人々が耳を傾けなるのを許さないまま、その人々に代わって問題の決定を引き受けること
そのような形で主張するのは、無謬性を想定しているのだそうです。
影響力
発信をすれば、他人に悪い影響を与える可能性があります。
しかし、悪影響を与えるのが怖いからと言って、発信を諦める必要はないと、ミルは言います。
なぜなら、人はみんな自分の意思で選択しているからです。
もし、商品が、思ったより良くなくても、
Aさんに、責任を求めることはできないのです。
他の例で言うと
例えば、Aさんが食べたスイーツが美味しくて
Bさんに勧めたけど、Bさんにとっては不味かった
ということがあっても、BさんがAさんを責めるべきではないのです。
勧められたせいで悪影響があったからと言って、勧めた人に責任を求めることは、できないのです。
筆者の意見
ホラー映画を見に行って、その映画が怖くて不快だったとしても、映画を作った人たちに「映画を作るな」というべきではありません。
自分がホラー映画を見ないようにすれば良いのです。
なぜなら、ホラー映画を見たい人もいるからです。
そのため、映画を作る側の人が、萎縮する必要はないのです。
なぜなら、萎縮しないで活動する方が、個人の才能が開花するからです。