JSミルは、相手の意見が正論でも、自分に合わないなら、拒否していいと考えました。
『自由論』でどのような主張をしたのか見ていきます。
何でも受け入れるのは良くない
人は善悪を自力で判断して、悪から距離を置く中で、判断力が磨かれていきます。
何でもかんでも素直に受け入れるだけでは、その人の判断力は磨かれないのです。
これの反論としては、次のような意見もあるかもしれません。
「格言や常識は、今まで反論されて来なかったのだから、素晴らしいに違いない。だから、素直に受け入れるべきだ」と言う考え方です。
しかし、ミルは「反論を言うことに価値がある」と主張します。
ある意見に対してこれまで反論がなかったからといって、その意見をオウム返しに語ると、その意味そのものが忘れ去られてしまうのです。
反論がなくなると言葉が空っぽになる
言葉は、反論があるからこそ意味を持つのだとミルは言います。
例えば、素晴らしい格言があって、満場一致で、みんなに愛されている言葉だとしても
もし、反論がなければ、その言葉に込められた想いが忘れられてしまうのです。
反論があるから、その主張に、生き生きとした確信が生まれるのだと、ミルは言います。
反論されなくなると停滞する
宗教もことわざも、反論をされなくなると、思想が停滞してしまいます。
たしかに、教祖やその直属の弟子の間では、言葉は、活力に満ち溢れています。
しかし、長年の間、伝言されるうちに、その言葉の力強さは、失われていってしまうのです。
素晴らしい言葉が広く浸透して、むしろ「それが常識」というレベルに来ると、機械的に暗記された言葉だけが残ります。
その言葉は、表面の殻だけであり、肝心なところは失われてしまっているのです。
論争の勢いがなくなってくると、言葉の活力も薄れていきます。
なぜなら、その意見を、自分で選び取り、別の主張からその主張に乗り換えたわけではないからです。
今となっては、常識になってる言葉を、ただ引き継いだだけです。
そうなると、黙って従うだけで、感動が生まれないのです。
自分の意見を信じるために、命懸けの力を駆使するよう精神が必要な時に、言葉にエネルギーが宿ります。
しかし、自分自身の経験で検証したりする手間を省いて、鵜呑みに信じると、感動が生まれません。
格言なんて、他人を論破する時くらいしか役に立たない
そのような空っぽの言葉でも、論敵にぶつける時は役に立つと、ミルは言います。
例えば、「自分を愛するように隣人を愛せ」と人々は言います。
とはいえ、こういった格言は、人々がけっしてしようとは思わないことを要求しているのです。
自分を愛するように隣人を愛せる人なんて、いない方が普通なのです。
大人たちは、たくさんの格言を子供に教えます。
この世の格言を全てを実行することは不可能です。
しかし、格言に疑問を持つだけで、社会から叩かれてしまうのです。
だから、人々は、言葉を信じてるフリをするのです。
信じているフリをするしかありません。
それを正しいと思っているからではなく、その方が安全だからです。
それでも、これらの教えは、文字どうりその意味のままでも、論敵に投げつける時には役に立ってくれます。
しかし、格言は、人々の気持ちを掴んでおらず、彼らの心の中の力になっていないのです。
私たちは、格言に、敬意を払うのが習慣になっています。
しかし、だからこそ、格言が「他人の自由を制限するために」使われているのです。
最後に
私たちは、格言を、自分の人生を豊かにするために利用するべきです。
弱気になっている人を裁くために格言を使うべきではありません。
格言を、「他人の自由を制限するために」使うのは、不当なことなのです。