誰かが、トラブルに巻き込まれる可能性がある時、人々は、つい指示を出してしまいたくなります。
しかし、そのような人は、嫌われやすいです。
なぜ心配したり指示を出したりすることが、悪いことなのでしょうか?
JSミルやルソーの思想から考えてみます。
JSミル
人は自分の直感を使って生きています。
人は、自分の直感に従うことを阻害された時、不快になるのです。
もし、被害が確実に起きることが分かっているのであれば、その人の結論に反論してもいいかもしれません。
しかし、被害の恐れがあるだけなら、周りの人は、強引にその人を引き留めてはいけないと、ミルは言います。
なぜなら、指示を出すと言うことは、本人の判断力を奪うことに繋がるからです。
人は、判断力がなくなると、無気力な人間になってしまいます。
本人が自分の直感に従った結果、失敗するだけなら、周りの人は、口出しをするべきではありません。
たしかに、何か失敗をすることは、悪いことかもしれません。
しかし、無気力な人間になるよりはマシなのです。
人は、自分の判断力を使って、善悪を見分ける中で、能力が磨かれていきます。
もし、人生の主導権を他人に握られていたら、能力が退化してしまいます。
自分で自分が何がしたいのか分からない無気力人間になるほうが危険なのです。
他人の人生にどれほど介入していいのかについて、ミルは、橋を渡る例を挙げています。
たしかに、危険な橋を誰かが渡ろうとしているのを見たら、その人を掴んで引き戻しても、その人の自由を本当に侵害したことにはならないかもしれません。
自由とは「本人が望んでいることをすること」です。
もし、本人が落ちることを望んでいないなら、周りの人が、その人を無理やり引き止めても許されます。
しかし、被害が確実ではないのなら、周りの人は、その人を邪魔すべきではありません。
危険を冒すことに対する覚悟があるかどうかは、本人だけが知っていることです。
そのため被害に遭わないように力づくで本人を阻止する、といったことは、すべきではないのです。
ミルは、自由論の中で「人は自分の人生を自分で選ぶべきだ」と主張しています。
Aさんにとって、素晴らしい生き方は、Bさんにとって、素晴らしいとは限りません。
Aさんが考えた結論を、Bさんに強制してはいけないのです。
なぜなら、Bさんは、自分の判断力を使って自分の人生を選ぶからです。
Aさんの生き方をBさんが真似するとは、限らないのです。
ルソー
ルソーは、子どもの教育に関しては「主体性」大事だと主張しました。
例えば、火に触ろうとする子どもがいたら、火が熱いことを教えるべきです。
しかし、子どもを罰するべきではないのです。
なぜなら、人は好奇心を遮られたら、気分が悪くなるからです。
そして、罰することを「相手からの悪意だ」と感じます。
子どもは、火が熱いという事実には耐えることができますが、他人の悪意には我慢できないのです。
そのため、火に触るという好奇心を持った子どもは、火に触って熱いことを悟る方がいいのです。
なぜなら、人は、自分自身の判断に従いたいからです。
子どもが悪いことをしたからといって、罰しても意味がないと、ミルは言います。
なぜなら、罰するというやり方で、人をコントロールしても、その人の主体性は磨かれないからです。