同調を重んじる環境はなぜ危険なのか?JSミルの意見を見てみる

ミル

みんなで同調して働いている時、反論してくる人がいると煩わしいかもしれません。

しかし、反論があるから、その意見に生き生きとした確信が生まれるのだとミルは言います。

なぜそのように考えたのか、見ていきます。

同調することによる弊害

意見というのは、反論があってこそ輝くものであると、ミルは考えます。

例え、みんなに受け入れられている意見が事実だとしても、自由な討論が行われていない場合には、弊害があるのです。

それは、以下の2点です。

①意見の根拠について人々が無知なままになってしまうこと

②意見の意味そのものまで忘れ去られてしまう、ということ

反論そのものを禁止してしまうと、言葉が思想を伝えなくなってしまい、機械的に暗記された意味のないものになってしまいます。

または、意味が多少残ったとしても、表面の殻だけであり、肝心なところは失われてしまっています。

たとえば、あまり意味が分からないけど、みんなが使ってることわざが、あるかもしれません。

言葉だけが伝わり、この言葉にどのような想いが込められていたのかが忘れられてしまうことがあります。

これは、人間の歴史で、何度も起きたことなのです。

反論があると活力が出る

素晴らしい言葉は、教祖やその直属の弟子の間では、意味深いものであり、活力に満ち溢れています。

言葉というのは、生み出された時に、イキイキと輝きます。

新しい価値観は、最初のうちは、反発をくらうかもしれません。

しかし、自分たちの考え方を人々に伝えるための闘いが続く間は、言葉には、命懸けの力を駆使するようなエネルギーが宿ります。

反論があるうちは、自分が何に味方して闘っているのか、誰を救うための言葉なのかが、本人の中でハッキリしています。

誰を守るために、意見を言っているのかが、実感されているのです。

どんな教祖も、最初は、たくさんの反発に遭います。

しかし、そのように反論に立ち向かっている間は、持っている能力の全てを駆使して、相手を納得させようとします。

だから、その人は、ハツラツとした人間になるのです。

 

反論がなくなると感動も消える

やがて、その考え方に反論がなくなると、論争は勢いを失い、徐々に輝きが消滅していきます。

その言葉が常識になれば、信奉者は、信じてる主張を誰かから引き継いでいます。

自分で選び取り、別の主張からその主張に乗り換えたわけではありません。

そういうことは、今となっては、常識になってる言葉を、ただ引き継いだだけで

黙って従うだけです。

そうなると、その意見に対する感動も無くなるのです。

その意見が常識になると、人々は、自分自身の経験でいろんなことを検証する手間を省くようになります。

そして、他人から言われた言葉を鵜呑みにして、信じるようになります。

言葉を、形式的にしか理解しなくなるのです。

感動のともなわない同意を強いられるだけです。

社会は、ほっておくと、自然と同化していきます。

みんなが似たり寄ったりな意見を持つようになります。

そうなると、人々の精神は、石のように硬くなっていくのです。

もし全人類が同じ価値観になったとしたら

私たちは、他人も分かり合うと、喜びを感じます。

他人と価値観が同じだと嬉しいのです。

しかし、全人類が同じ価値観になったとしたら、どんな未来が待っているのでしょうか?

自分がどうしたいかではなく「社会から何を求められているのか」を追い求める生活が始まります。

何かを判断するたびに周囲を見回して、周りの人がどれほど常識に従っているのかを見張るのです。

みんなが同じ意見を持つようになれば、人々は考えることをやめます。

世間で受け入れられている意見の決まり文句を口にしているだけの人が、お互いを監視する社会になるのです。  

そうなると、本当は問題を理解していないのに、理解してるフリをするだけになるのです。

反論を許せない社会

こうして「真理は1つしかない」という考え方になっていくと、人々は反論を許せないようになっていきます。

そして、反論が一つ現れるだけでも、激しくそれを拒絶してしまいます。

伝統を守らない人は、いつの時代も苦しい思いをしてきました。

超お金持ちの人ですら、個性的すぎると、多数派の意見に圧倒されてしまいます。

社会的な支えがないまま、自分の意見を持ち続けるのは、超お金持ちの人ですら、難しいです。

マイノリティな意見は、「敵」とみなされ、攻撃対象になってしまうのです。

むしろ、反論を封じることを目的とし出すのです。

そして、反論しないことが「善」である、という価値観が広がっていきます。

反論を拒絶する人にとっては、もはや信念は形式的な口先だけの言葉になり、役立たたないものになっています。

自分が正しいと言うことにしたいから、そもそも反論を「言わせない」という戦略を始めるのです。

これは、人々の精神を塞ぐだけで、実感のこもった本物の確信が理性や個人的経験から成長していくのを防げることになります。

本来であれば、どちらが正しいのかを議論するべきです。

価値観には、良いものや、悪いものがあるかもしれません。

しかし、まず、前提として、「お互いに違う」ということ、そのものが素晴らしいのです。

いつの時代も、異なった道を歩んだ人々は、互いに不寛容でした。

自分と価値観が違う人に優しくなれないのは、普通のことです。

しかし、他人にも、自分と同じ道を歩むように強制するのは、間違っています。

それぞれの人が、自分で経験して、自分で選び取っていくなかで、実感のこもった理性が作られていくからです。

全人類が同じ価値観になってくると、他人に、自分達の真似をするように要求するチカラも大きくなっていきます。

反論すること、そのものがキケンになっていきます。

そして、社会に反論する人がいなくなり全ての人が一つの型にハマるようになります。

ここまで、事態が悪化するのを放っておくと、みんなにとっての理想の生き方が、1つであるかのように、教育が広まります。

こうなると、この「型にハマっていない」という理由だけで、「不道徳だ」といわれるようになるのです。

人間は、多様性をしばらく見ないままでいると、多様性を想像できなくなってしまうのです。

今となっては、常識になってる言葉を、ただ引き継いだだけで、黙って従うだけです。

そこに、なんの感動もありません。

正解を教わるだけでは不十分なのです。

間違いが許されない人生に、感動は起きません。

間違えなければ、本当の意味で、言葉一つ一つの意味は分からないからです。

自分で自分の生き方を選んで、成功したり失敗したりする中で、日常の言葉一つ一つの深さを知ります。

間違えなければ、言葉の深さが分かりません。

間違えた上で、それが間違えだと気づく過程で、「これが正しい」という確信を深めるのです。

議論は大切

人がいろんな意見に耳を傾けざるをえない時には、いつでも望みがあります。

意見に多様性があると、面倒くさく感じすることもあるかもしれません。

しかし、少なくとも「みんなで間違える」ということを避ける事ができるのです。

みんなで一つのものを信じる時こそ、その信念は誇張され、虚偽にまでなってしまい、それで真理の持ってる意味を失うのです。

反論は不快だからしてはいけないのか?

次にミルは、反論で人を不快にさせてしまう場合について、考えています。

世間には「人を不快にさせるくらいなら、反論の言葉を飲み込むべきだ」という考え方があります。

反論を言った時「反論の自由はあるけど、節度を守るべきだ」と言い返されるかもしれません。

それでは「節度」とは何なのでしょうか?

例えば「節度を守る」という言葉の意味が「攻撃されている意見の持ち主を不快にさせないこと」であるなら、そこに、ほとんど言論の自由はないです。

なぜなら、反論が説得的で強力な場合は、必ず相手を不快にさせてしまうからです。

 

たしかに、たとえ正しい意見であっても、言い方に問題がある場合もあるかもしれません。

しかし、言い方に気をつけても、相手に不快感を生じさせるのは、やむを得ないのです。

これは、相手が信念を強烈に信じていて、他人の意見に耳を傾けたくないからです。

このような場合、相手がこちらの本音に気づかないくらいオブラートに包んで話すしか方法がなくなります。

やんわり言って伝わるなら、そのやり方が適切です。

しかし、ハッキリと言わないと伝わらない人もいるのです。

議論でしてはいけないこと

最後に、ミルが「議論でしてはいけないこと」として紹介していたものを挙げていきます。

やってはいけないことの一つ目は、詭弁を使うことです。

詭弁とは、自分の意見に言いくるめようとする話し方のことです。

2つ目に事実を隠すことです。

私たちは「何が正しいのか」について話し合っているのだから、持っている情報は、隠すべきではありません。

3つ目に、議論の論点をはぐらかすことです。

議論中に論点をズラしたり、論点を隠したりされると「何に対して言い争ってるのか」の目的を失うので、良くありません。

4つ目に、自分に反対する意見を歪曲して述べることです。

論敵を倒したいからと言って、論敵の意見を捻じ曲げてしまうのは、良くありません。

ところが、こうしたことを、高学歴な人が大真面目にやるわけです。

しかも、こうしたごまかしが頻繁に起きるから、いちいち指摘するのが追いつかないくらいだと、ミルは言います。

議論に勝ちたいからと言って、このようなやり方で、議論を壊すのは間違っているのです。

筆者の意見

今回は、議論が大切であるという話をしてきました。

とはいえ、議論をしている人を見ると、不快感になる人もいるかもしれません。

なぜなら「相手の意見への否定」が「人格否定」として受け取られる場合もあるからです。

本来であれば、反論をされたら「議論が盛り上がってきた」とか「価値のある意見をもらえた」とリアクションするべきです。

それなのに「自分のメンツを潰された」と感じて、反論してくる人に敵意を向けしまう人もいます。

だから、「議論=口喧嘩」になってしまうのです。

そして、口喧嘩をしないために「本音を誰にも語らない」という選択をせざるを得ない状況にあるのが現状だと思います。

とはいえ、胸の内に、素晴らしいアイデアを持っている人もたくさんいると思います。

だから、その価値ある意見を活かすためには、意見を言いやすい環境づくりが大切なのです。

少し意見を言っただけで叩かれるような社会では、人々は口喧嘩を恐れて精神が萎縮してしまいます。

私たちがするべきことは、反論をする人を叩くことではありません。議論に蓋をすることでもありません。

私たちがするべきことは「相手に敵意を向けない議論のスキル」を身につけることです。

なぜなら、自分の「本音」を発信する人がいる時にこそ、社会は発展するからです。

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