今回のテーマは、『自由論』です
『自由論』の中でも、趣味および探求の自由や、個性について触れている部分について書いていきます
自由論を読んだ筆者の解釈を書くので、あくまでも個人の意見としてご覧ください
何が好きかは、自分で選んでいい
ミルの主張は、人の個性や自由は守られるべきだというものです
なぜなら、個性を守れば、その個性は開花されるからです
個性が開花される時とは、人の願望や衝動が、その人の意志の支配下にある状態です
人はこのような状態の時、活力に溢れる性格を持つのだそうです
さまざまな願望や衝動を持つ個性の開花は、奨励されるべきです
人は、それぞれ個性に合った多様な行動が許されるべきなのです
しかし、社会の中で、個性が潰されてしまうことがよくあります
好みが多すぎることで、他人から非常識だと言われてしまうのです
しかし、ミルいわく、好みが少なすぎることの方が危険です
なぜなら、好みを減らすというのは、感情を失うことだからです
個性をおびやかしている危険は、個人的な好みが多すぎることではなく、それが不足していることなのです
もし、個性が潰されて、願望や衝動を持てなくなってしまったら、その人は、性格がないようなものだとミルは考えます
好きなものを好きと言えない環境では、感情を失ってしまうのだそうです
世の中の多くの人は、自分の好きなものが「他の人も好きかどうか」を気にします
群衆の好みに従って、何かを好むのです
そのような人たちは、一般に行われることの中からしか選択しません
なぜ彼らが、他の人を気にするのかというと、変わった趣味は、犯罪と同様に忌避されてしまう環境があるからです
しかし、このような社会は良くありません
自己の本性に従わないことによって、人々は持つべき本性を持たなくなってしまいます
好きなものを好きと言えない環境の中では、人間の能力はしぼみ、痩せ衰えてしまうのです
そうなれば、強い願望や自然な楽しみを持つことができなくなり、意見や感情も失ってしまいます
一方で、自分に合うものを選ぶ人は、慣習的なものを選ぶ人より、強い精神を持っています
そのため、何が好きかは、自分で選ぶべきだと、ミルは主張します
個性の開花は、奨励されるべきなのです
他人との一致を重視してしまう心理
とはいえ、ある程度は周りの人と合わせていかないと、周りの人から避けられがちになってしまうと思います
なぜ、人は、他人のと一致を重視するのでしょうか?
それは、「正しい人でありたいから」であると、ミルは考えます
人はそれぞれ正しい人でありたいから、狭量な型の性格へ向かうのです
しかし、人間の能力は開花させるためのものであり、根こそぎ消し尽くされるためのものではないのです
人間が美しいのは、彼ら自身の中にある個性的なものを、すり減らして一様にするからではありません
人間が美しいのは、人間の中にある個性的なものの全てを育成し引き立てるからなのです
他人に変に思われるかもしれないという理由で、自分が好きなものを好きと言えなくなってしまったら、人間の本性を鈍く曇らせてしまいます
それぞれの人の本性に十分な活動の場を与えるためには、さまざまな生き方が許されることが必要なのです
自由の雰囲気が天才を産む
好き嫌いの自由を守らないといけない理由の一つは、自由の雰囲気が天才を産むからです
個性がある人は、以前存在しなかった優れたものを導入することができます
自己の実験が、他人に採用された時に、従来の一般の人々の慣行を改善できるのです
また、個性がある人が導入したものが、くだらないものだったとしても、その行動には価値があります
もし、導入したものが、くだらなかったら、なぜ今までの常識が常識なのかを、再確認できるきっかけになるのです
新たなアイディアが非常識だったとしても、その新たなアイディアによって、今までの慣行が価値あるものであることを再確認できます
たしかに、天才は極めて少数であり、異端だと言われがちです
また、天才は、天才であるゆえ、他の人よりいっそう個性的です
しかし、天才を生むためには、天才をの育つ土壌が必要です
なぜなら、天才は、自由の雰囲気の中でのみ、自由に呼吸することができるからです
そのため、「自由が許されている雰囲気」を守ることが大切なのです
誰も理論上は、この説を否定しません
しかし、実際には、ほとんど全ての人がこれに無関心だと、ミルは言います
独創性とは、独創性がない人には感じ取ることができないものです
独創性がない人にとって、独創性が何の役に立つのかが、分かりません
もし、事前に何の役に立つのか分かっていたら、それは独創性ではないのです
そのため、独創性がある人は「野蛮」とか「奇人」などの重々しい警告のことばで指弾されがちです
残念ながら、独創的でない精神の人々は、その素晴らしさを感じることができないのです
独創性が、芸術や人類の進歩への手段として、目に見える形になって初めて、人々はその人の独創性に感謝します
そのため、独創性がある人にできることは、自分の独創性が何の役に立つのかを見せて、人々の目を開いてあげることです
そうしたら、独創性がなかった人にも、独創性を理解するチャンスになります
押し付けは良くない
生活のあり方も、ある人にとっては、その人の能力を最善の状態に保つものであっても、別の人にとっては、生活を停止するか、粉砕するものだったりします
そのため、押し付けはNGです
あくまでも、本人がどう考えるのかが大切なのです
他人を矯正して、無理やりにその道を進ませようもしたら、その人を堕落させてしまいます
その人がある程度の常識と経験を持っているなら、その人自身のやり方で生活を展開していくのが最善なのです
それは、彼のやり方それ自体が最善だからではなくて
「それが彼自身のやり方」だから、最善なのです
自分に合ったものを手に入れることが大切です
生き方にも多様性がない限り、人々は正当な幸福を感じることができないのです
肩書きがないと軽蔑されがち
私たちの時代では
「誰もしないこと」をする
「誰もがすること」をしない
それだけで非難されてしまいます
まるで、道徳を持ってない人かのような扱いを受け、軽蔑の言葉の対象となります
もし、軽蔑の言葉をかけられずに、自分のやりたいようにやりたいのなら
肩書きか、何か他の身分のしるしが必要です
しかし、肩書きを手に入れることは、簡単じゃないこともあるでしょう
また、自分の好きなものにガチでのめり込むと、周りから気が狂ったと思われて、精神鑑定に出されてしまうこともあると、ミルは言っています
普通の人は、個性をもつ人々を理解しません
そのため、個性がある人と、気が狂った人を同じカテゴリーに入れてしまうのです
道徳の改善を目指す運動が個性を潰す
世の中の一部の人は、道徳の改善を目指すために、積極的に他人の生き方にアドバイスをしようとします
この運動では、行為の規則性を増やし、性格の過激さを抑制させます
つまり、出る杭が打たれます
人々は、行動の規則を定め、認められた基準に全ての人を従わせようとしています
そしてその基準とは、「何事も強く望まない」ということです
道徳の改善を目指す運動によって、全ての人は「何事も強く望まない」という基準に、従わさせられるのです
平均的な人間は、個性がある人に比べて無気力です
無気力で平均的な人によって、個性的な人は、軽蔑されます
普通の人は、何か並外れたことをしたいという欲や、強烈な好みや願望を持っていません
一般的な平均的人間は、知性の点で普通並みであるのみならず、その精神的傾向も普通並みです
一方で、個性がある人は、行為の一般的な規則を定め認められた基準から外れています
だから、道徳の改善を目指す人たちから、軽蔑の眼差しを向けられるのです
杞憂はほどほどに
なぜなら、その人がどれくらい強い覚悟を持って、それをしようとしているのかは、他の人には、知ることができないからです
こうゆう場合には、彼にその危険を警告するだけにとどめるだけで大丈夫です
彼が危険に身をさらすのを、強制的にやめさせることは、周りの人はするべきではありません
助けたいという気持ちは素敵ですが
自由を侵害するレベルの心配は良くないのです
反論しないで、離れればいい
自分を不快にしてくる人がいても、その人を罰しようとしなくて大丈夫です
自分を不快にする人がいたら、黙って離れるのが最善です
仕返ししようと、考える必要はありません
悪いことをしている人が、その人自身の生活をダメにしていたとしても、私たちは、その人の生活をダメにしようとしなくていいのです
その人は、自分にとっては、嫌悪の対象かもしれません
しかし、怒りや怨恨の対象にすべきではないのです
私たちがその人にしていい罰は、彼を放置しておくことだけです
その人になんらかの苦痛を与えるのは、私たちの役目ではないのです
最後に
私がミルの本を読んで考えたことは、以下のようなことです