ミルは、無謬性の仮定は悪いことだと主張してます。
この記事では、無謬性の仮定の意味について見ていきます。
無謬性
無謬性とは、「間違っていない=絶対に正しい」という意味です。
つまり、間違いはない(ことにする)ということです。
間違いがあったとしても、あらゆる理屈で正当化する、というニュアンスを含んでいます。
無謬性の仮定
周りの人に認められることで、人々は、無謬性を仮定します。
周りの人が「あなたは正しい」と言ってくれる時、「自分は正しいのだ」と信じることができるのです。
無謬性の仮定を得る方法
無謬性の仮定を得る方法は、反対意見を排除しようとすることです。
つまり、反対意見を「言わせない」ことです。
人々は、無謬性の仮定を得るために、反対意見を排除しようとしてしまうのです。
無謬性の仮定が悪いことである理由
人は、自分ひとりの判断に自信がない分、世間の判断を鵜呑みにします。
しかし、ミルは、無謬性の仮定が悪いことであると考えました。
なぜなら、世論が間違うこともあるからです。
それに、世間が正しかったとしても、彼らにとっての「世間」とは、学校とか職場とか、しょせん小さな世界です
世間に認められても、それが絶対に正しいとは限らないのです。
さらに、人は、無謬性を得るために、反論を排除したがります。
他人が、その問題を考えて意見を言うことを、邪魔するのです。
ミルの主張
ミルが、無謬性の仮定と呼んでいるのは、誰かの意見に、他の人々が耳を傾けることを許さないことです。
その聞く人たちを黙らしたまま、勝手に自分が代表して、自分の意見を、みんなの意見の代表みたいな感じにして、意見を言うことです。
ミルは、これは良くないと批判しました。
他の人々が耳を傾けなるのを許さないまま、「これが正しい」という形で主張するのは、無謬性を想定しているのです。
話し合うことで、人類の知性は磨かれていく
JSミルは、言論の自由について述べた人です。
言論の自由とは、話し合う自由のことです。
話し合うことで、人類の知性は磨かれていきます。
話し合いを止めることで得られるのは、平和ではありません。
人類の成長が止まるだけです。
例えば、みんなが知ってるようなことわざや、宗教の言葉は、みんなに受け入れられているかもしれません。
みんなに受け入れられているから、みんなが知っているのです。
しかし、ことわざのように、どんなに全人類から崇められている言葉でも、批判を受け入れる必要があります。
なぜなら、いろんなことを疑って、批判にも耳を傾ける中で、人類は成長していくからです。
批判が当たっている部分からは学べるものがあるはずです。
また、間違っている部分については、どこが間違っているかを、丹念に説明することで、知識がより豊かになります。
どんな賢者も、これ以外の方法で英知を獲得したことはありません。
賢明になるのにこれ以外の方法がないのです。
自分の意見と他人の意見を見比べて、自分が間違えたと思えば、自分の意見を訂正する必要があります。
そして、自分が正しいと思うなら、自分が正しいと主張する機会が与えられていることが大切です。
そうやって、すり合わせをする中で、自分の意見に正当な自信を持つようになるのです。
ローマ・カトリック教会ですら、聖者を列聖するのには「悪魔の代弁者」を招き入れ、じっと話を聞きます。
最も聖なる人であっても、悪魔が言う反論に耳を傾けるのです。
教祖というのは、反論に、さらに反論できるレベルになってこそ、全面的な信頼感を得ることができます。
それなのに、その教祖が生み出した言葉が、「常識」というレベルになると、「それが真実だから」と言って、反論を認めない姿勢が広がっていきます。
つまり、「自分達は、これが確実であると確信してるから」疑問を差し込むことは禁止すべきだと考えて、反論を排除するようになるのです。
しかし、これは、無謬性の仮定です。
間違ってないということにしよう、としてるだけで、本当に正しいのが間違ってるのか、議論をしないという戦略で、無謬性を仮定しているのです。