JSミルの考える️無謬性の仮定とは?『自由論』から考える

ミル
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ミルは、無謬性の仮定は悪いことだと主張してます。

この記事では、無謬性の仮定の意味について見ていきます。

無謬性

無謬性とは、「間違っていない=絶対に正しい」という意味です。

つまり、間違いはない(ことにする)ということです。

間違いがあったとしても、あらゆる理屈で正当化する、というニュアンスを含んでいます。

無謬性の仮定

周りの人に認められることで、人々は、無謬性を仮定します。

周りの人が「あなたは正しい」と言ってくれる時、「自分は正しいのだ」と信じることができるのです。

無謬性の仮定を得る方法

無謬性の仮定を得る方法は、反対意見を排除しようとすることです。

つまり、反対意見を「言わせない」ことです。

人々は、無謬性の仮定を得るために、反対意見を排除しようとしてしまうのです。

無謬性の仮定が悪いことである理由

人は、自分ひとりの判断に自信がない分、世間の判断を鵜呑みにします。

しかし、ミルは、無謬性の仮定が悪いことであると考えました。

なぜなら、世論が間違うこともあるからです。

それに、世間が正しかったとしても、彼らにとっての「世間」とは、学校とか職場とか、しょせん小さな世界です

世間に認められても、それが絶対に正しいとは限らないのです。

 

さらに、人は、無謬性を得るために、反論を排除したがります。

他人が、その問題を考えて意見を言うことを、邪魔するのです。

ミルの主張

ミルが、無謬性の仮定と呼んでいるのは、誰かの意見に、他の人々が耳を傾けることを許さないことです。

その聞く人たちを黙らしたまま、勝手に自分が代表して、自分の意見を、みんなの意見の代表みたいな感じにして、意見を言うことです。

ミルは、これは良くないと批判しました。

他の人々が耳を傾けなるのを許さないまま、「これが正しい」という形で主張するのは、無謬性を想定しているのです。

話し合うことで、人類の知性は磨かれていく

JSミルは、言論の自由について述べた人です。

言論の自由とは、話し合う自由のことです。

話し合うことで、人類の知性は磨かれていきます。

話し合いを止めることで得られるのは、平和ではありません。

人類の成長が止まるだけです。

例えば、みんなが知ってるようなことわざや、宗教の言葉は、みんなに受け入れられているかもしれません。

みんなに受け入れられているから、みんなが知っているのです。

しかし、ことわざのように、どんなに全人類から崇められている言葉でも、批判を受け入れる必要があります。

なぜなら、いろんなことを疑って、批判にも耳を傾ける中で、人類は成長していくからです。

批判が当たっている部分からは学べるものがあるはずです。

また、間違っている部分については、どこが間違っているかを、丹念に説明することで、知識がより豊かになります。

どんな賢者も、これ以外の方法で英知を獲得したことはありません。

賢明になるのにこれ以外の方法がないのです。

自分の意見と他人の意見を見比べて、自分が間違えたと思えば、自分の意見を訂正する必要があります。

そして、自分が正しいと思うなら、自分が正しいと主張する機会が与えられていることが大切です。

そうやって、すり合わせをする中で、自分の意見に正当な自信を持つようになるのです。

ローマ・カトリック教会ですら、聖者を列聖するのには「悪魔の代弁者」を招き入れ、じっと話を聞きます。

最も聖なる人であっても、悪魔が言う反論に耳を傾けるのです。

教祖というのは、反論に、さらに反論できるレベルになってこそ、全面的な信頼感を得ることができます。

それなのに、その教祖が生み出した言葉が、「常識」というレベルになると、「それが真実だから」と言って、反論を認めない姿勢が広がっていきます。

つまり、「自分達は、これが確実であると確信してるから」疑問を差し込むことは禁止すべきだと考えて、反論を排除するようになるのです。

しかし、これは、無謬性の仮定です。

間違ってないということにしよう、としてるだけで、本当に正しいのが間違ってるのか、議論をしないという戦略で、無謬性を仮定しているのです。

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