今回のテーマは、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』に出てくる「言論の自由」についてです
自由論を読んだ私の解釈や印象に残ったことなどを書いていきます
私の解釈なので、あくまでも個人の意見としてご覧ください
世間が正しいと言えば、それは正しいのか?
人は何をもって、「自分が正しい」と感じるのでしょうか?
大切なことは、自分の頭で考えて「これが正しい」と判断することです
しかし、よくあるのは、「世間が正しいと言っているから正しい」と考えるパターンです
世間の意見の鵜呑みはよくない
ミルは、世間の意見を鵜呑みにするのは良くないと考えました
なぜなら、どんな意見であれ「この意見が絶対に正しい」とは言えないからです
多数派の人が「自分が正しい」と信じてることは、「世間が正しいと言っているから正しい」という根拠で言っています
しかし、絶対正しい意見なんて存在しません
そのため「みんなが正しいと言うから、これは絶対に正しい」というのは、ただの勘違いなのだと、ミルは考えています
「人は、間違いをおかす生き物である」というのは、みんなが知っていますが
「自分自身が何か間違いをおかすかもしれない」と考えることができる人は、少ないです
だから、他の人の考えも聞くことで、間違いを修正していけるのです
しかし、自信がない人ほど、世間の意見を信頼しすぎてしまう傾向にあります
自信がない人は、他の人と価値観を共有することに安心感を抱くのです
そして、反対意見を言ってくる少数派の人がいるとビックリしてしまうのです
そのような臆病者が、少数派を排除しようとするのです
もし、こうして、反対意見(少数派の意見)を潰しているのなら、その人たちは、新しい意見を聞くチャンスを失っています
どんなに多くの人が納得している考え方に対してでも、反対してる人がいれば、その人の意見を潰してはいけないのです
少数派の意見が不道徳だからといって、少数派の意見を潰していたら、この社会は危険なものになるのだそうです
みんなに「正しい」と言ってもらうために、少数派の反対意見を排除してしまっては、危険なのです
少数意見を潰すのは危険
反対意見を潰すために、反対する人を黙らせたり、意見を言いづらい雰囲気を作ったりすると、みんなが損をすることになってしまいます
現代では「少数派の人は、黙ってなさい」とわざわざ言ってくる人は少ないかもしれません
しかし、反対意見を言い出しにくい社会の圧力はあると思います
社会の圧力とは、例えば、少数派の人に「変わってるね」と言ったり、「世間の意見に従おうよ」と言ったりすることです
これが、言論の自由を潰しているのです
ミルは、はなから「少数は間違っている」と決めつけるのは、良くないと考えました
なぜなら、少数派の人が意見を言いづらい雰囲気を作っているからです
異端だとしても、人には意見をいう自由があります
自分の意見を言って、人の意見を聞いて
そうして前に進んでいくのです
自分の意見が少数派だった時、自分の考えを誰かに言ったとしても、すぐには賛成してもらえないかもしれません
でも、その結論に至った根拠を言う自由はあるのです
自分の意見に対する反論もあることでしょう
しかし、反論を考えたうえで、自分の意見が正しいと思ったのなら、それは声に出していいのです
自分の意見が「普通じゃない」と知っていても、沈黙を選ぶ必要はないのです
なぜ、少数派を潰してはいけないのか?
なぜ、少数派を潰してはいけないのでしょうか?
ミルいわく、少数意見を大切にすることは、その人だけでなく、社会全体にとって、いい影響があります
いろんな意見を出して議論した方が、良い結論がでるため
少数派を潰してはいけない理由の1つ目は、いろんな意見を出して議論した方が、良い結論がでるからです
人間はみんな違うため、話し合った方が、いいアイデアを発見できる可能性が上がるのです
人はみんな違うから、意見が合わなくて喧嘩になることはあるかもしれません
しかし、そうやって、話し合っていく中で、お互いを高め合っていくことができるのです
もし、少数派を沈黙させてしまえば、議論を沈黙させてしまいます
議論を沈黙させることは、その時の時代の人だけでなく、後の世代も被害を受けることになります
なぜなら、意見の発表を禁じることは、新たな考え方を知るチャンスを失うからです
少数派の意見も聞き入れることで、社会全体のアイデアが豊かになるため、少数派の意見を封じることは、公益を減少させることになるのです
少数派の人の判断力が鍛えられるため
少数派を潰してはいけない理由の2つ目は、議論した方が、少数派の人の判断力が鍛えられるからです
まず、その人が選んだことが、正しいか、間違ってるかに関わらず、「主体的に選んだ」と言う事実が大切です
なぜなら、選択することが人間としての成長を促すからです
自分で選ぶことで、判断力が鍛えられるのです
もし、自分のことを世間や周辺の人々に決めてもらっていたら、判断力を鍛えることができません
自分が納得してない意見に従い続けたら、その人の理性は減退してしまうのです
「世間の意見に従おうよ」と言ってくる人たちは、他の人に対して、判断するチャンスを横取りしています
しかし、他人が判断力を使うチャンスを奪う権限はありません
価値観の押し付けは、加害になってしまうのです
自分に自信がない人ほど、世間が正しくて、少数派は間違ってると考えがちです
しかし、各個人にとっての世間というのは、狭い世界です
自分の知っている「世間」が「世の中の全てだ」と勘違いしてしまう人がよくいます
しかし、1人の人が知っている世間なんて、本当に小さな世界です
世の中は、もっと大きくて、いろんな意見で溢れているのですが
それに気づけない人もいるのです
また、世間の意見は、「時代の流れ」に影響を受けています
世間も間違えることがあります
常に絶対正しい人なんかいません
みんなが世間の意見を支持していても、その意見に反対する自由が人にはあります
どの時代も、後の時代では誤っているばかりか馬鹿げていると思われるような意見を数多く抱えているものです
だから、自分の頭で考えるという義務を他人に委ねてはいけません
自分の意見に基づいて行動することが大切です
そして、他人に押し付けないことも大切です
自分の意見が正しいと考えるのは、素晴らしいことですが
有害な他人の意見を封じることで、社会をより良くしようと思うのは傲慢なのです
他人の意見が有害であると、決めつけることは良くありません
口を封じることは、異端的な考えに対する不安が棚上げにされただけです
私たちは、世論が正しいと言ってる意見に対しても、反証する自由があります
多数派の人の考える力が鍛えられるため
少数派を潰してはいけない理由の3つ目は、議論した方が多数派の人の考える力が鍛えられるからです
意見を言うことで、別の誰かの「考える力」が鍛えられます
例えば、「先生が言ってたから正しい」ってなんの疑問も抱かなかった考え方があったとして
それに対して、反対意見をいう友達がいたら
なんで「先生は、そう言ったんだろう」と振り返るキッカケになります
問題を解決する方法は、いろんな人の意見を聞くことです
自分の意見を他人の意見と突き合せて、修正していくことが大切です
ただ言われた通りにする人より、反論を吟味をした上で、自分の見解を出す人の方が、優れていると、ミルは言います
疑問を差し込むことを許さないとしたら、人類が信じている真実が、本当に真実だという完全な確信を持つことはできません
もし議論の場が開いていれば、私たちは、もっとよい真理があるかもしれないと想像することができます
そうしたら、もっと良い真理を発見できるだろうという希望を持つことができます
誰かが、異端な意見を言った時、それが間違っていても、今までなんとなくで信じていた真理をもう一度見つめなおすキッカケになります
改めて真理を一層明白にして、一層鮮やかな印象にするチャンスなのです
自分が真実だと思っていることについてだれかが疑いもせずに同意してくれれさえすれば、それで十分だと思う人がいます
こういう人たちは、いったん権威者(偉そうにしてる人)から何かを教え込まれると、それに疑念を持つことすら悪だと思うのです
そんな人が大多数の環境は危険です
彼らは、ただの迷信を信じているだけです
こういうのは真理を知っているということではないのです
こんなふうに信じられている真理は、真理ではなくて、迷信なのです
少数派の人を黙らせたとしても、衰退するのは、少数派の人ではありません
最大の被害を受けるのは、異端ではない人です
反対意見を恐れたことで、精神の発達が妨げられて、理性が萎縮してしまう人です
臆病な性格を持った人が多いことで、世界は損失をこうむります
自分で判断することを禁止し続ける雰囲気の下では、知的で活発な国民がいなくなってしまうのです
暗記させるな
世の中には「答えだけを教え込めばよい」と思っている人がいます
そんな人は、常識がなぜ常識になったのかも知らずに、ただ繰り返してるのです
意見が反駁されるのを聞いたことがないから、その意見は単にわけもわからず繰り返されているのです
しかし、賢い人は、単に常識や世論を記憶する人ではありません
常識がなぜ常識になったのか、どのように示されたのかを考えるのです
難問を自由に語ることができなければ、難問は解決しません
議論がなくなれば、意見の根拠が忘れ去られるばかりか、意見そのものの意味も忘れられるのです
意見を伝える言葉は、その言葉が本当に伝えようとしていたことがほぼ伝わらないものになってしまいます
だから、答えの暗記は良くありません
答えを暗記させてしまえば、生き生きとした信念が消え、意味が抜けた殻だけが残るのです
先人の知恵は、ことわざとなっていて、私たちは、沢山のことわざを知っています
しかし、ことわざの本当の意味を思い知るのは、実際に、痛い目を経験した時だったりします
たいていは、ことわざを知っていても、それが自分の人生の役には立っていないのです
たしかに、「これが正しい」と思っていることを、「本当に正しいのかどうか」を片っ端から全て議論していては、いくら時間があっても足りません
だから、人は「ある程度これは正しいと考えていいよね」という格言に対して
それ以上は考えたくなくなるという傾向があります
ただ、それがミスの原因になっています
もし、事前に議論できていれば、事前にことわざの意味を理解することができていたかもしれないのです
まぁ確かに、個人的に体験してみて痛感するまでは、その完全な意味を十分に理解できないような格言もたくさんあります
しかし、議論も大切です
その意味を理解した人々の賛否両論を聞き慣れていれば、そういう真理の意味もさらにいっそう理解できるし、より深く心に刻みつけることになります
議論を避けようとするから、ミスを防げないのです
その格言が本当に素晴らしいものなのかどうかを議論する人がいてくれれば、あなたが痛い目をみて、格言の意味を理解するという不幸を避けることができるかもしれません
議論を始めてくれる人がいるおかげで、未来のミスを回避できるのです
間違った意見を潰したい心理
なぜ人は、一つの答えを信じて、他の意見を潰そうとするのでしょうか?
いろんな理由があると思います
理由の一つは、間違った意見が広がるのを防ぐためです
人は、間違える生き物なので、間違ったことを考えてしまうこともあります
他人が間違うことを防ぐために、自分が好きじゃない意見を潰そうとするのです
しかし、
判断力は、みんな一人ひとりに授けられたものです
自分の判断力は、自分で使っていいのです
たしかに、判断を間違えてしまうことはあるかもしれません
だからといって、「全てのことについて、判断力を使うべきではない」としてしまうのは、おかしなことです
それに、人は間違えて学んでいくのです
判断力を使わなければ、成長するチャンスがなくなってしまいます
「世間からのウケが悪い意見」を言うことを禁止すると、私たちは、判断力を鍛えることが難しくなります
自分の意見が間違ってるかもしれないからといって、世間の意見に従って生きてしまったら、自分の知性は止まってしまうのです
悪い意見を聞かせないようにする必要はありません
判断の積み重ねが人を成長させるのです
答えだけ知りたい時は?
今までの意見の反論としては、
でも、自分は頭が良くないし、賢者が出した結論を盲目的に信じて生きたい
という意見があるかもしれません
「結論だけを教えてください」
「結論だけ知れれば満足です」
って人がいること自体は、OKです
しかし、皆がそうあるべきだとするのは危険だと、ミルは考えています
出された答えにたいして「不満足だ」と思ったら、その人には、反対意見をいう自由があるのです
折り合いをつけていく方法
意見が衝突したら、どうするべきか
一人ひとりが、自分の判断力を使って、選択をすることが大切です
とはいえ、人はみな違う考えを持っています
意見が衝突してしまった時は、どうすべきなのでしょうか?
まず、「世間が言ってるから正しい」
「世間が言ってるから間違ってる」
という基準で、正しいか間違ってるかを決めるのは良くないという話を今までしてきました
一人ひとりが、自分の判断力を使って、正しいか間違っているかを決めることが大切です
その上で、意見が衝突したら、どうやって決着をつけるべきなのでしょうか
少数派の人も多数派の人も、両方とも正しい時、議論するしかありません
なぜなら、他人を黙らせる権利はないからです
アドバイスを言う自由と、拒否する自由
次に、アドバイスを言う自由についてです
人には、言論の自由があるので、アドバイスをするのも自由です
しかし、アドバイスとは、「アドバイスされる人の判断や目的を支配しようとする行為」です
だから、アドバイスをされたくない人もいます
このケースでは、どう対処するべきなのでしょうか?
まず、「アドバイス」は、その人の善意から、生まれたものです
しかし、ミルによると、善意によって「アドバイス」されている以上、アドバイスされた側は、服従、感謝、恩返しをするべきだというプレッシャーがいつもあります
アドバイスをありがたがらなければ見捨てられる、というプレッシャーを与えているのです
たしかに、アドバイスすることで、その人を良い方向に導ける可能性はありますが、悪い方向に導く可能性もあります
だから、本人がどう考えるのかが、1番大切なのです
アドバイスの自由は、どこまで許されるのでしょうか
あらゆるアドバイスは、アドバイスする人の好みや世界観を相手に押し付けることだと、ミルは考えます
皮肉なことに、良かれと思ってあれこれアドバイスしてくる人は、その人を嫌って遠ざかっていく人よりも害があります
アドバイスは、相手に害を与えない範囲で行うことは不可能です
では、どの程度の「害」までなら、許されるのでしょうか?
人には、好き嫌いの自由があるので、アドバイスを拒否する自由があります
一方で、人には言論の自由があります。つまり、アドバイスを言う自由があるです
この、アドバイスをする自由と、アドバイスを拒否する自由が、ぶつかる時、どうすれば良いのでしょうか
ミルいわく、これは、お互いの言い争いの結果、折り合いをつけていくしかないそうです
お互いに、多少の我慢はどうしても必要になるのです
ある程度の自由の侵害を受け入れて、忍耐しあう必要があります
そして、迷惑はお互い様として耐えた上で、お互いの自由な活動の発展の場を守る必要があるのです
少数派の意見を聞くことが不快な時、どうするべきか
少数派の意見は、大切にされるべきです
しかし、多数派の人にとって、とても聞き難い話をしてくる異端者もいるかもしれません
少数派の人が、その人の生き方について話をしている時に、それを聞くことが不快だったら、どうするべきなのでしょうか?
まず、誰かの意見が、不快だったとしても、その人の口を封じることは、してはいけないことです
なぜなら、その人には、言論の自由があるからです
では、他人の意見を聞くことが不快な時、どうするべきか
ミルが出した答えはこれです
他人の個性を抑圧するのは、よくありません
そのため、黙らせにいくことはできません
しかし、意見を聞くことを避けることはできます
なぜなら、人には「自分の受け入れやすい意見を選ぶ自由」があるからです
こうして、あえて、他者への干渉をつつしむことで、争いを避けることができるのです
多分、ミルの考えを現代に当てはめると、多分こんな感じだと思います
少数派の人こそ大切にしよう
世の中には「みんなの意見を聞かないと、何をしたら良いか分からない」という人が多くいます
そんな中で、個性がある人は、「世間が正しいと言っているから正しい」と鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考えて正しいかどうかを判断する主体性があります
彼らは、他人から攻撃させるかもしれないと分かっているのに、それでも意見を言う勇気があります
その意見の内容に関わらず、勇敢に発言していること自体が素晴らしいのです
選択する人間は成長します
個性が自己主張することが素晴らしいのです
しかし、社会の圧力があるために、多くの少数派は、自ら進んで沈黙を選んでいます
それは遠慮しているからです
遠慮するせいで、自由な考えが放棄されています
主体性がある素敵な人たちを遠慮させてしまっていては、少し残念なのだと思います
少数派の意見を言った人に対して、正論を言うマジョリティの人々は、「自分は正しい判断をする人だ」と自惚れています
しかし、こんなふうに自己満足してる人々は、自分の頭で考えてないことに気づいていないのです
それぞれの考え方には、議論の余地があり、討議を続けるべきなのです
少数派の人が「自分の意見が正しい根拠」を言うチャンスを奪うのは、いけないことです
とある人の意見が、すごく異端だったとしても
その人がなぜその考え方に至ったのかの理由をちゃんと聞いてあげないままに、「その意見が有害だ」と決めつけてはいけません
意見が正しい可能性もあることを検討する余地が必要です
人は、他人に迷惑をかけない範囲なら、自分で選ぶ自由があります
自分の美的感覚で選択できることが素晴らしいのです
個性的な人物は、活力があり、他人の幸福のため、人類の進歩のため、芸術活動をするために、行動します
人は個性を大切にすることで、幸福になるのです
それぞれの人が、その人らしい生き方を浸透させていけば、社会は、より素敵なものになっていくのだと思います